宗田 理 2年A組探偵局 仮面学園殺人事件 目 次  1 マスク少年  2 追悼集会  3 少年たちが消える  4 計 画  5 マスクを脱ぐとき   あとがき  1 マスク少年     1  有季《ゆうき》のケータイが鳴った。  最近、ケータイを持ち歩くようになって外からの連絡《れんらく》が便利になった。 「野口《のぐち》、しばらく」 「あ、野口先生」  有季は、半年前に起きた二中の事件を思い出した。  あの事件は、学校のあちこちに、二人の黒い人形のマークが描《えが》かれていた。  それはこんなマークだった。二人の子どもが手をつないでいる。一方は小さく、一方は大きいので、きょうだいみたいに見える。  そのマークがマーカーで学校のあちこちに描かれるので、野口から相談を受けたことがある。  犯人の意図は何だろうと野口に聞かれて、 「それは、放っておけば自然になくなりますよ」  と言っておいた。 「だれかを誘拐《ゆうかい》するなんていう予告じゃない?」  野口は、それを心配しているようだった。 「私は、生徒のいたずらだと思います。そこまで心配することはないでしょう」  有季の言ったとおり、一カ月もすると、黒い人形のマークは描かれなくなり、そのことは、いつの間にか忘れられてしまった。 「あの黒い人形の件ですか?」  有季は、そうではないだろうと思いながら聞いてみた。 「そうじゃないの。今度はもっと変な事件。事件というよりは出来事といったほうがいいかもしれないけれど……。とにかく相談したいの。今日の五時ころ『フィレンツェ』に行ってもいい?」 「ええ、いいですよ」 「それじゃ、話はそのときに」  野口は、ほかに用事があるのか、早々と電話を切ってしまった。  有季は、野口の電話のことを貢《みつぐ》に話した。 「変な事件だって。なんだと思う?」 「変な事件だけじゃ、何もわかんねえよ」 「それはそうね」  たしかに貢の言うとおりだ。�変な事件�では、想像のしようもない。 「だけど、�変な事件�ってのは気に入ったぜ」  このところ、事件らしい事件もないので、貢はのってきた。  その日の午後五時ぴったりに、野口は『フィレンツェ』にやって来た。 「先生、しばらくです」  貢は、満面の笑顔を見せて言った。 「貢君って、いつも明るくて、元気そうで、このお店の福の神みたい」  野口は、ポモドーロを注文した。 「先生、まだ早いんじゃないですか?」 「貢君の顔見たら、急にお腹《なか》が空《す》いてきたの」  野口も貢につられるように元気になった。  これは貢のキャラクターである。有季ではとてもまねはできない。 「さっそく、変なお話を聞きましょうか?」  貢は、グラスに冷えた水を入れて運んで来ると、野口と向き合ってすわった。 「あなたたち、鉄仮面って知ってるでしょう?」  野口が聞いた。 「ええ、知ってます」  二人同時に答えた。 「その鉄仮面が教室にあらわれたのよ」 「ちょっと、ちょっと。それじょうだん?」  二人は、野口の顔を見つめた。  野口は英語の教師で三十二|歳《さい》、大学のときに一年カナダに留学しているので、英会話はうまい。  ロンドンにいた有季とは英語で会話したりする。  米国人のボーイフレンドはいるけれど、結婚《けつこん》する意志はなさそうだ。 「鉄仮面というのは大げさだけれど、プロレスの覆面《ふくめん》レスラーのようなマスクをつけて学校にやって来る生徒がいるのよ」 「なんですか、それ?」  プロレス好きの貢は、興味を示したようだ。 「だけど面白い。学校では何も言わないんですか?」  笑いながら聞いた。 「もちろんやめるよう言ったわよ。でも言うこと聞かないの」 「それ、いつごろからやり出したんですか?」 「今日でちょうど一週間になるわ」 「一週間もそんなかっこうでやって来たら、生徒たちだって騒《さわ》ぐでしょう?」  有季が聞いた。 「騒ぐわよ。その子|田中靖《たなかやすし》っていうんだけど、教室に入って来ると、男子は手をたたいて歓迎《かんげい》するんだって。まるでプロレスラーの入場みたいに」 「女子はどうですか?」 「女子は、気味わるいからやめてと言うらしいわ。でもやめないんだって」 「田中って子は、いつもふざけ屋なんですか?」 「それが、学校にもあまり来ないし、来てもだれとも口をきかないで、暗い顔して保健室に行ってるか、教室の隅《すみ》でぼんやりしているの。だから友だちなんてだれもいないネクラの子」 「そういうのって、クラスに一人くらいいるよな。いじめられたりはしないんですか?」  貢が聞いた。 「小学校のときから、いじめられていたらしいわ。いじめた子に聞いてみると、田中を見るとむかつくんだって」 「そんなやつが、どうしてマスクをかぶったんだろう?」  有季は首を傾《かし》げた。 「マスクをかぶったとたん、彼《かれ》人間が変っちゃったの。急にみんなとしゃべったり、はしゃいだり、じょうだんを言ったり。要するにネクラからネアカの悪ガキになっちゃったのよ」 「へえ、そんなことってありか?」  貢は、有季の顔を見た。 「ベネチアで、仮面つけて悪いやつを驚《おどろ》かせたことあるけど、たしかに仮面をつけると別の人間になったみたいで、妙《みよう》に嬉《うれ》しくなったわ」(『ぼくらの魔女《まじよ》戦記』参照) 「そういえば、ベネチアでは、仮面はどこにでも売ってたな」  貢が懐《なつ》かしそうに言った。  有季も、イタリアで魔女と戦ったことが、昨日のことのように思い出された。 「ルチアは、いまごろどうしてるかしら? まだトスカーナのお城にいるのかしら?」 「有季、そんなことより田中のことだ。なぜ急にマスクをつけるようになったのか、理由を聞いてみたんですか?」  貢が言った。 「もちろん聞いてみたわ。彼の答えは、ただマスクをかぶりたくなった。それだけ」  野口が困惑《こんわく》しきっている様子が、いやでも伝わってくる。 「一回だけなら、つけてみたい気もするけど、毎日となると根性《こんじよう》がいるぜ。校長とか教頭なんかは何も言わないんですか?」 「校長室に呼んで、校長、教頭、教務主任、それに私と四人がかりで説得したけれど、全然だめ」 「無理にマスクを取るということはなかったんですか?」 「それをやって、けがでもしたら暴力教師だと問題になるから、あくまで説得でマスクを脱《ぬ》がそうということになったの。それで毎日田中に話してるんだけど全然だめ」 「だめというのは、いやだと突《つ》っ張るんですか?」  有季が聞いた。 「そうではなくて、私が何を言っても全然耳に入っていないみたい。なんだか壁《かべ》に向かって話しているよう。こっちのほうが無力感でどうにかなりそう」  野口は肩《かた》を落した。 「でも、田中君は楽しそうなんでしょう?」 「そうなのよ。毎日が楽しくてしかたないみたい」 「じゃ、田中君にとっては、マスクをかぶることはいいことじゃないですか?」 「彼にとっては、それはそうなの。でも、学校の中にマスクをかぶった子がいるのはいかにも異様で、そのうちマスコミが面白がって取り上げたら、校長は教育委員会に呼ばれて叱責《しつせき》されるでしょう。校長はそれをいちばん恐《おそ》れているの」 「わかりますね。茶髪《ちやぱつ》と一緒《いつしよ》で、たとえ他人に迷惑《めいわく》をかけなくても、目立ったかっこうはチェックするのが学校ですからね」 「放っときゃいいのに。学校ってそういうところなんだよな」  貢が言った。 「田中君の家って、商売は何ですか?」  有季が聞いた。 「ごくふつうのサラリーマン」 「ご両親には会いました?」 「お父さんには会ってないけれど、お母さんには会ったわ」 「お母さんは、田中君のこと、なんて言ってるんですか?」 「マスクをつけるようになってから明るくなって喜んでるって」 「じゃ、取らせる気はないんですね?」 「ええ、全然。だから困ってるの」 「田中君って、もしかして顔に傷して、それを見せたくないからなんてことはないんですか?」  貢が聞いた。 「そのことは生徒に聞いたけれど、そんなことはないって」 「先生は、私たちに田中君がマスクを取るよう説得しろとおっしゃるんですか?」  有季が言った。 「もちろん、マスクは取ってほしいけれど、そのまえに、どうしてマスクをつけたのか、そのへんのことを聞き出してもらいたいの。教師にも親にも言わないし、生徒に頼《たの》むわけにもいかないので、あなたたちにおねがいしたいの」  野口の頼みを断わるわけにはいかないと有季は思った。 「それって、どんなマスクですか?」  貢が聞いた。 「こんなマスク」  野口は、手帳にマスクの絵を描《か》いた。 「顔全体は真っ白で、目にはメッシュが張ってあるから中は見えない。材質は布で、うしろに紐《ひも》がついていてしばるようになっているから、ちっとやそっとじゃ剥《は》ぎ取るわけにはいかないの」 「でも、これちょっと不気味ですね?」  有季は、見ているうちにぞっとしてきた。 「そうなのよ。女子はみんないやがってるわ」 「とにかく、田中君に会ってみます。彼が話をするかどうかはわかりませんが……」 「おねがい」  野口は手を合わせた。  野口は、三十分ほどいて帰って行った。 「変な依頼《いらい》だな」  貢は、ぼそぼそつぶやいてから、 「だけどこんな妙なことが大事件に発展することもあるんだよな」  貢の予感は当るかもしれない、と有季はふとそう思った。     2  有季は田中靖の家に電話して、名前を言うと、有季のことなら野口先生から聞いて知っていると言った。 「今から、おたくに伺《うかが》いたいんだけれど、会ってくれる?」  有季は、いやだと断わられるかなと思いながら聞いてみた。 「君の事務所、『フィレンツェ』というイタリアレストランなんだろう?」  田中が言った。 「そこなら知ってるから、ぼくのほうから行くよ、腹が空《す》いてるから、パスタご馳走《ちそう》してくれる? ご馳走してくれたら、なんでも話すよ」 「そうねがえれば、私のほうはOKよ。じゃ待ってるわ」  有季が電話を切ると、貢が、 「向こうからやって来るというのか?」 「そう。パスタをご馳走してくれれば、なんでも話すって」 「やけに気やすいな。ちょっと拍子抜《ひようしぬ》けだぜ」 「私もそう思った。どうなっちゃってるの?」  それから三十分ほどして、田中がやって来た。  白いマスクをしているので、店の客がいっせいに田中に注目した。  有季が手を上げると、田中はみんなの注視は無視して、有季の席にやって来た。 「こんばんは」  田中は、ぺこりと頭を下げた。 「こんばんは、みんなに見られて恥《はずか》しくない?」 「学校以外では、こんなマスクはしない。今日は特別だ」  田中は明るい声で言った。 「みんなが変な目で見るでしょう? 恥しくない?」  有季が聞くと、田中は、 「みんなに見られると愉快《ゆかい》になっちゃうんだ」  と言った。 「プロレスラーになったみたいな気分か?」  貢が聞いた。 「それとも違《ちが》う。なんだか知らないけど、マスクかぶると、恥しいことも、怖《こわ》いことも何も感じなくなっちゃうんだ」 「魔法《まほう》のマスクだな」 「ほんと、ぼくもそう思う。ぼくってみんなから暗い、むかつくってシカトされてるけど、マスクかぶると、とたんにぼくはヒーローさ」 「それじゃ取りたくないな。中に何か仕掛《しか》けでもあるのか?」 「なんにもない。ただの布のマスクさ。さわってみな」  田中に言われて、有季はマスクにさわってみた。  ごわごわした帆布《はんぷ》みたいな布で、目の部分にはメッシュが張ってあるので、目は見えない。  口の部分は、引っ張っても破れないように革で縁取《ふちど》りしてある。 「ずいぶん丈夫《じようぶ》そうね? まさか自分で作ったんじゃないでしょう?」 「自分では作れないよ。売ってるところがあるんだ」 「それ、どこ?」 「それはヒ・ミ・ツ」  田中は、有季の誘導《ゆうどう》にはのってこなかった。 「マスクかぶると、ほかに、どんないいことがあるの?」  有季が聞いた。 「それは、ぼくが別の人間になれることさ。マスクをかぶっていれば、ぼくを見てもだれだかわからない」 「そうか、だから、人から見られても恥しくないんだ」 「そう。これって楽しいぜ」 「でも、クラスでは田中君ってわかるでしょう?」 「クラスではね。でも、ぼくじゃないやつがマスクかぶってやって来たら、みんなはぼくと思うぜ」 「しゃべらなかったら、そう思うかもしれないね」 「マスクってのは、自分が消せるんだから、透明《とうめい》人間と同じなんだよ」  田中に言われて、貢は、 「そうか、透明人間ならおれもなってみたい」  と言った。 「でも、マスクしてると学校で先生たちからいろいろ言われるでしょう。平気?」 「前のぼくだったら、そんなこと言われたらもう学校には行けないけど、マスクしてると平気」 「じゃ、言うことを聞かずに、そのままつづける気?」 「うん」 「どうして、そこまで突《つ》っ張るの?」 「マスクはずしたら、元のぼくに戻《もど》っちゃう。それが怖《こわ》いんだ。ぼくは、元の自分が嫌《きら》いなんだよ」 「そうか、そういうことなの」  有季は、田中がマスクをつけつづけている意味が少しわかったような気がした。 「だけど、そんなかっこうでコンビニに行っても入れてくれないだろう?」  貢が言った。 「学校を出たらはずすんだ。そうすれば、ぼくがマスクマンってことがわからないだろう?」 「なるほど、けっこう気をつかってんだ」 「それはそうさ」  マスクの中の田中の唇《くちびる》がゆるんだように見えた。しかし、本当のところ田中の表情はわからない。  田中は、夢中《むちゆう》でパスタを食べると、 「ああうまかった」  と腹をなでた。 「グチに言っといてくれないかな。あいつはマスクを取りそうもないから、放っとけって」 「グチッてだれ?」 「教務主任の坂口《さかぐち》だよ」 「言っとくわ。でもちょっと心配」 「何が?」 「君に何か起こらないかって」 「そんなことないって、じゃあね。ごちそうさま」  田中はパスタを食べてすっかりご機嫌《きげん》になって帰って行った。 「マスクなんてかぶってるんだから、よっぽどおかしなやつと思ったけれど、いい感じじゃないか?」  田中が帰ってしまうと、貢が言った。 「私もそう思った。マスクかぶってるだけで、ネクラがあんなに明るくなれるなら、文句言う筋合いはないと思うんだけど、でも、なんとなく、ヤバイことが起こりそうな気がする」 「ヤバイことって何だ?」 「それはわかんない。だけど、人間って集団に異物があると排除《はいじよ》してしまいたくなるものだから、彼がこのままつづけていることは、彼のためにもさんせいできないな」 「そうか……」  貢も少し気になったのか、黙《だま》ってしまった。     3  野口は、有季に頼《たの》んではみたものの、田中のマスクを取るのは無理だと思っていた。  有季の電話によると、放っておいたほうがいいということだったが、そういうわけにはいかない。  今日、週刊誌の記者が学校にやって来て、マスクのことで校長に会いたいと言った。  校長は会いたくないので、その役を教頭の真壁《まかべ》に押《お》しつけて逃《に》げてしまった。  取材が終り、記者が帰ってしまうと、野口は校長室に呼ばれた。そこには、校長の丹羽《にわ》、教頭の真壁、教務主任の坂口、生徒指導の後藤《ごとう》がいた。  真壁の話によると、その週刊誌では、来週号でマスクのことを取り上げるということだった。 「そのタイトルが驚くじゃないか、『仮面スクール』だと」  真壁は、みんなの顔を順に眺《なが》めたが、野口のところで視線が止まると、 「田中の説得はどうなりました?」  と言った。まるで、にらみすえている目だ。 「説得はしました。けれど彼《かれ》は聞こうとしません」 「それは、説得は放棄《ほうき》したということですか?」  真壁の声がふるえている。いまにも爆発《ばくはつ》しそうな感じだ。 「田中という生徒は、みんなからうざったいとか、むかつくとか言われて、不登校の多い子でした。学校に出て来るといつも教室の隅《すみ》でぼんやりとすわっていて、だれとも口もきかないのです。それがマスクをしたとたん、人格が変ってしまったのです」 「どんなふうに変ったんですか?」  校長の丹羽が聞いた。 「マスクをしたとたん、すっかり明るくなって、みんなと話したり、ふざけ合ったりできるようになりました」 「それを、マスクのおかげだと言いたいんですか?」  教務主任の坂口が言った。三十七|歳《さい》。上のほうだけを見ている。  野口は、坂口のことをいやなやつだと思っている。だから坂口も野口のことをいやなやつと思っているに違《ちが》いない。 「私は、マスクには人格を変える効用があると思っております」 「それでは、つけっ放しにしろと言われるんですか? それは問題発言ですよ。撤回《てつかい》しなさい」  坂口がきめつけるように言った。 「私は、このまま放っておくつもりはありません。ねばり強く説得するつもりです。けれど、田中がマスクを取ったとたん、元どおりのネクラな子になってしまうかと思うと、考えてしまうのです」  野口は、坂口と話すと、いけないと思いながらつい挑戦的《ちようせんてき》になってしまう。 「いいですか? 来週にはうちの学校はマスコミの餌食《えじき》にされ、天下に醜態《しゆうたい》をさらすのです。こんなことを世間が認めると思いますか? 校長先生と教頭先生は、それを放置したことについて、教育委員会から当然責任を取らされますよ。それでもあなたは、自分の処置は正しいと言われるのですか?」  坂口は、かさにかかって野口を攻《せ》め立てる。 「それでは、田中のマスクを無理矢理|剥《は》ぎ取るしかありません。どなたかそれをしてくださるんですか?」  野口は、坂口の目をにらみ返した。 「私がやりましょう。押《おさ》えつけてでも取ります。こんなことは通用しないということを全校生徒に示すためにも」  坂口は真っ赤になった。 「私は坂口先生の意見にさんせいです。ここで放置したら、世間のもの笑いだけでなく、生徒にもなめられて、それ以後生徒は教師の言うことを聞かなくなるでしょう。これはまさしく学校|崩壊《ほうかい》です」  生徒指導の後藤がつづけて言った。 「そのとおりです。われわれは断固たる処置を取らなくてはなりません。校長先生のご決断をおねがいします」  真壁は、校長の丹羽に視線を向けた。 「それしかないかもしれないな」  丹羽はうなずいた。 「早いほうがいい。今からやりましょう」  後藤は、椅子《いす》から腰《こし》を浮《う》かした。 「みなさんのおっしゃりたいことはよくわかります。あと一日待ってください。私が説得しますから。強硬|措置《そち》はそのあとにしてください」  野口の懇願《こんがん》をみんな冷やかな目で見ていたが、 「いいでしょう。一日だけ待ちます。そのかわり、もし説得に失敗したら、強行してでもマスクを取ります。それでいいですね?」  丹羽が念を押《お》した。 「はい、それでけっこうです」  校長室を出た野口は、知らずに足が二年一組に向かっていた。  生徒たちに、どうしようか相談してみようと思った。  教室に入ると、田中はみんなと騒《さわ》いでいた。以前の田中からは、想像できない明るさである。 「みんな、静かにして。ちょっと相談があるんだ」  野口の様子がいつもと違っていると感じたのか、急に静かになった。 「何? 結婚するの?」  安井美也《やすいみや》が言ったとたん、教室は、わっと湧《わ》いた。 「そんなことじゃない。田中君のこと」 「わかった。来週週刊誌に出るんだろう? すっげえじゃん」  水野健太《みずのけんた》が言った。 「どうして、そんなこと知ってるの?」  野口が聞くと、水野は得意そうに、 「おれ、週刊誌の記者から、インタビューされたんだ。だから知ってんだよ」 「何を話したの?」 「何もかもさ。週刊誌に出るなんてかっこいいじゃん。ついでにおれの名前も出してくれって言っといた」  すると、みんながいっせいに拍手《はくしゆ》した。 「そんな記事が出たら、学校の恥《はじ》じゃないの?」 「なんで?」  みんな、けげんそうに野口を見ている。 「そうか、恥じゃないのか……」  校長たちの認識とは、まったく違うことに驚《おどろ》いた。 「だって、おれたちの学校がメジャーになるんだぜ。それって名誉《めいよ》なことじゃねえのか?」 「タイトルは『仮面スクール』だってさ。おれたちもマスクかぶるか?」 「さんせい、やろうぜ」  教室は収拾がつかないほど、マスクで盛り上った。 「ちょっと待って。田中君は明日までにマスクを取らないと、無理矢理取られるのよ」  野口の言葉に一瞬《いつしゆん》生徒たちは黙《だま》ったが、 「だれが取るんだよ?」  と水野が言った。 「それは先生よ」 「わかった。そういうことやるのはゴートーとグチだ。そうはさせないぜ。おれたちで田中を守る」 「守るって、みんなで反抗《はんこう》したら、たいへんなことになるわよ」  野口は、生徒たちがスクラムを組んで、田中を守る情景を想像した。 「先生、おれたちはそんなあほじゃないんだ」  水野はにやにやしている。 「どうするの?」 「みんなで、田中と同じマスクをかぶるのさ。そうしてテレビを呼ぶんだ」 「ええッ」  野口は絶句した。 「こうなったら、だれが田中かわかんなくなるぜ、どうする? テレビが取材に来てる前で、全員のマスクを剥《は》ぎ取れるものなら取ってみな」  みんなの拍手と歓声《かんせい》で、教室は手がつけられないほど騒然《そうぜん》となった。 「困ったね。どうする? 先生」  そんなことになったら、校長、教頭、教務主任、生徒指導の教師たちはどんな顔をするだろう。  パニックになることは間違《まちが》いない。  それを想像すると、野口はなんとなく愉快《ゆかい》になってきた。  ——あなたたちやりなよ。思いっきり。  口まで出かかったが、さすがにそこまでは言えない。     4  その日の授業は、生徒たちがマスクで興奮してしまって、ほとんどできなかった。  職員室に戻《もど》ると、教頭の真壁が校長室に来てくれと言った。  校長室には、さっきと同じメンバーがいた。また何か言われるのか、と覚悟《かくご》してソファにすわった。 「野口先生、田中のマスクを取るのは中止です。田中には何も言わなくていいです」  校長の丹羽が言った。 「どうしてですか? 放置してもいいんですか?」  野口は、丹羽の言う意味がわからないので聞き返した。 「N区に光陽《こうよう》中学という学校がある。全校で二百七十人だから大きい中学ではない。その中学で今朝《けさ》自殺者が出た。窓から飛び降りたのだ」  中学校で自殺者が出るというのは、今ではさほど珍《めずら》しいことではなくなった。  それをなぜ丹羽が言うのか、野口には意図がわからないので、 「自殺の原因は何ですか?」  と聞くしかなかった。 「テレビの報道によると、こういうことです。自殺した生徒、仮にAとします。彼はマスクをつけて登校していたのだそうです」 「マスク? うちだけじゃなかったんですか?」  野口は、思わず聞き返した。 「私も知らなかったが、ほかにもマスクをつけていた子がいたのです」 「その子、なぜ自殺したんですか?」 「それなんです」  丹羽は、一呼吸置いてから、 「教師が、寄ってたかって、Aのマスクを剥ぎ取ろうとした。Aはそれを嫌《いや》がって逃《に》げた。教室の隅《すみ》まで追いつめて、捕《つか》まえようとしたとき、Aは窓から飛び降りたんだそうです」 「なんということ……」  野口は、耳をおおいたくなった。 「田中を追いつめて、同じようなことになったらたいへんです。だから中止することに決めたのです」 「そうですね。田中だって、同じことをやらない保証はありません。それでは、放置しておいてよろしいんですか?」 「いまのところはね。自殺者が出たのですから、放っておいても教育委員会は、何も言ってこないでしょう」  真壁が言った。 「では、そうします」  肩《かた》が急に軽くなった。 「田中の様子はどうですか?」  坂口が聞いた。 「楽しんでいます。すっかり明るくなりました」 「田中がいいんなら、放っときましょう」  真壁は、さっき言った言葉を忘れたように平然と言う。その無責任さに野口はむかついて、何か言ってやりたいと思ったが、辛《かろ》うじて我慢《がまん》した。 「しかし、マスク小僧《こぞう》はうちだけかと思ってましたが、ほかにもいるというのは驚きでしたな」  坂口が言った。 「これがきっかけになって、もっと増えるかもしれません。そんな予感がします」  後藤がつづけた。 「困った風潮ですな」  丹羽はそう言いながら、表情は明るい。  よそでもそういう生徒がおり、強硬手段に出たために自殺したということになれば、放置しておいたということは、ほめられこそすれ、非難されるおそれはなくなってしまったからだ。  これは、自分に運がついていたと満足しているに違《ちが》いない。  野口は、丹羽の表情を見て、そう思った。 「野口先生、ほっとしたでしょう?」  坂口が皮肉たっぷりに言った。 「仮にも子どもが自殺したんです。原因はまだわかりませんが、強引にマスクを取ろうとしたことも一因じゃないんですか。そのことをもっと重く受けとめるべきではないでしょうか?」  野口がつめ寄ると、坂口は唇《くちびる》をゆがめて、 「私が言いたかったのは、先生がほっとしたでしょうということです」 「私はほっとなんてしてません。それよりも、無理矢理マスクを取ろうとしたらどうなるか。その結果を期待していました」 「田中が自殺するのを待っていたんですか? それは問題だ」  坂口はむきになった。 「田中は自殺なんかしません。なぜなら、マスクは取れないからです」 「なぜ取れないんですか? 理由を言いなさい」 「理由をお聞きになる前に、やってごらんになったら?」  坂口がなおも言いかけるのを真壁が止めた。 「坂口先生、その話は止《や》めましょう」  そのニュースを、有季は昼休みに知った。  野口がケータイに電話してきたからだ。 「マスクマンが田中君以外にもいたということは問題ですね。その子のこと田中君に聞いてみましたか?」  有季は、野口に聞いた。 「聞いてみたわ。田中君はこう言ってた。その子のことは知らないけれど、マスクマンはぼく一人じゃない。ほかにもいるって」 「そんなこと言いましたか。すると、マスクをかぶろうと思ったのは、田中君の発案ではないのかもしれませんね。そのことは気になっていたんです」 「どうして?」  野口が不審《ふしん》そうに聞いた。 「ネクラの田中君が、マスクをかぶれば明るくなれるなんて、自分の発想ではないという気がしてたんです。きっとだれかにすすめられてかぶったんじゃないかって」 「そう言われれば、そんな気もするわね」 「自殺した子も、マスクはどうしても必要だったんだと思います。それを無理矢理|剥《は》ぎ取られてしまったら元の自分に戻ってしまう。それを恐《おそ》れて自殺したような気がします」 「それじゃ田中君だって、無理矢理マスクを取ったら、どうなったかわからないわね?」 「自殺するかどうかは別として、いい結果にはならないと思います」 「そうよ。そうよね。でも、もう大丈夫《だいじようぶ》。今度の事件で教師たちはびびってるから、強引な手段には出ないと思う」  野口の言うとおりだろう、と有季も思った。 「今日、もう一度田中君に会ってみます。マスクをかぶっている子が、ほかにもいるって言ったことが、気になるんです」 「そう言われればそうね。ぜひ会ってちょうだい」  有季は電話を切ると、話の内容を貢に話した。 「自殺者が出たってのはショックだな。しかし、大人《おとな》はこれでびびって何もしなくなるだろう」  貢が言った。 「マスクをかぶることが流行になるかもよ」  有季は、そんな気がしてならない。  その日の夕方、田中は前と同じように、マスクをつけて『フィレンツェ』にやって来ると、ピラフが食べたいと言った。 「ピラフくらいならお易いご用だ」  貢はキッチンに入ると、エビピラフを運んで来た。 「これ、君が作ったのか?」 「そうだ。これはうちの目玉だ」  貢は胸を張った。 「うまそうだな」  田中は、夢中《むちゆう》になってピラフをかきこんだ。 「君は、どうしていつもがつがつしてるんだ? 何も食ってねえみたいだぜ」  貢が言うと田中は、 「マスクかぶってると、食っても食っても、腹がへるんだ」  と言った。 「それにしては太ってねえじゃんか。病気かもしれないぜ。医者に診《み》てもらったら」  貢は、食べればすぐ太ってしまうので、ちょっと羨《うらやま》しそうに言った。 「ぼくは大丈夫。君もマスクかぶったら?」  田中に言われて、貢はぐっとつまってしまった。 「食べながらでいいから聞いて。マスクかぶってる子は、田中君以外にもいるってこと知ってたの?」 「うん、知ってた」  田中はうなずいた。 「だれかに聞いたの? それとも友だち?」 「聞いたんだよ、だけど、そんなことどうでもいいじゃん」  田中は、面倒《めんどう》くさそうに言った。 「そうはいかないよ。マスクをかぶった子が自殺したとなったら、きっと君のところにもマスコミの人が来るよ」 「何しに来るんだ?」  田中は、食べるのを止《や》めて聞いた。 「同じマスクをつけてるんだから、仲間と思うじゃない?」 「ぼくは仲間じゃない」 「君にマスクをつけろと言ったのはその子? それともほかのだれかに言われたの?」 「自殺したやつではない。あいつのことは知らない」 「じゃ、だれ?」  有季は、田中の顔をのぞきこんだ。 「それは言えない」  田中は、それきり口を閉じてしまった。 「じゃ、それ以上は聞かない。でもよかったじゃない。文句言われなくなって」 「そのうち言うさ」  田中は、さほど嬉《うれ》しそうにも見えなかった。     5  その夜、有季はロンドンにいる真之介《しんのすけ》にメールを送った。  この事件について、真之介ならどう考えるか知りたかったからだ。  眠《ねむ》ったのは十二時をまわっていたと思う。  それからどのくらい経《た》ったかわからないが、夢《ゆめ》の中でサイレンの音を聞いていた。 「有季、火事よ」  体を揺《ゆ》するおばの声で目があいた。 「消防自動車が走ってる音が聞こえるから、そんなに遠くとは思えないわ」  有季は、半分|寝《ね》ぼけながら、東側の窓を開けた。空の一部が赤くなっている。 「街の方角ね」  おばの声を聞いた瞬間《しゆんかん》、もしかしてという思いが閃《ひらめ》いた。  まさかとは思ったが、貢の家に電話してみた。  コールサインは鳴っているのだが、出る気配はない。  電話が鳴るところをみると、貢の家ではない。  きっと近所に違いない。だからみんな外に出たのだ。 「おばちゃま、アッシーの家に行って来る」  言ったとたん、おばの表情がひきつった。 「『フィレンツェ』が?」 「まさかとは思うけど、電話に出ないの」 「じゃ、私も一緒《いつしよ》に行く」  二人は着替《きが》えして家を飛び出した。  有季の家から『フィレンツェ』までは、歩いて十五分。走れば十分で行ける。しかし、おばと一緒では走るわけにはいかない。  有季は、苛立《いらだ》つ気持ちを押《おさ》えて、速足《はやあし》で歩いた。  街に近づくにつれて、空はいっそう明るくなった。  繁華街《はんかがい》まで行くと、火事場へ急ぐ人の数がふえた。 「火事はどこ?」  おばが聞いたが、知っているわけはない。有季は、ちょっとおかしくなった。  火事の現場は『フィレンツェ』の隣《となり》で、もう焔《ほのお》は見えなかった。道路は水びたしで、水蒸気とも煙《けむり》ともつかぬものが、火事|跡《あと》から立ち上っている。 『フィレンツェ』は無事だった。  そのときになってはじめて、燃えたのは花屋だということに気づいた。  貢の姿が見えた。全身水びたしで、そのうえ顔も手足も泥《どろ》だらけだった。 「アッシーッ」  有季は、道路のこちら側から呼んで手を振《ふ》った。こちらを見た貢は道路を渡《わた》って、有季のところへやって来た。 「よかったね。焼けなくて」  有季は、まず型通りのあいさつをした。 「もうだめかと思った」  貢は、まだ興奮の冷めやらぬ声をしている。 「驚《おどろ》いたでしょう?」 「驚いたなんてもんじゃねえよ、おれんちと隣の家との間は、五十センチもないくらいなんだ。おふくろに、たたき起こされて窓を見たら真っ赤なんだ。最初はうちが焼けてるのかと思った」 「そうだよね。火を使っているのは貢んちだもんね。どうして花屋が火事を出したの?」 「それはまだわかんないけど、まったく火の気のないところから火が出たんだって」 「それじゃ放火」  有季は、知らずに声をひそめた。 「出火原因はそのうちわかるだろうけど、放火だったら気味悪い」 「そうね。じゃ私たち帰るわ。忙《いそが》しそうだし。アッシーの無事な姿見ただけで安心」 「嬉《うれ》しいこと言ってくれるぜ」  貢は、手を振りながら焼け跡にもどって行った。 「よかったね」  おばに言われて、有季もやっと自分を取り戻した。  火事の現場を見るのは、有季にとってはじめての経験だが、火というものは異様に人を興奮させるものだ。  もしも放火だったら、犯人は群集に紛《まぎ》れこんで火事を見ていたかもしれない。  そう思うと、背筋が寒くなった。  花屋の火事は、放火だろうということになった。まったく火の気のない場所から発火し、おまけに灯油がまかれていたことがわかったからだ。  放火は、この二カ月で三件目だ。一カ月に一件の割で起こっているが、犯人の手がかりは全然わかっていない。 「有季、あなたは探偵《たんてい》なんだから犯人を見つけなさい」  おばは簡単に言うけれど、そうはいかない。  その夜は、火事ですっかり興奮してしまったので、あまり眠《ねむ》れなかった。  それでも、翌朝は遅刻《ちこく》せずに学校に出かけた。  貢は休むだろうと思ったけれど、一時間目だけ遅刻して学校にやって来た。  有季が、前もって話しておいたので、貢は教室に入ったとたん、みんなに取り囲まれた。 「こういう気分って、悪かねえな」  貢は、まるでインタビューに答えるタレントみたいに、余裕《よゆう》をかませているのがおかしくて、有季は、思わず笑ってしまった。  昼に有季のケータイに野口から電話が入った。 「2A探偵局の隣が火事だったんだって?」  野口の声も興奮気味だ。 「そうなんです。火事場を見に行ったりして、今日はろくに寝《ね》てません」 「そうなの。でも燃えなくてよかったわね」 「ええ、燃えるとデータなんかもありますし、困るところでした。ところで、今日も田中君マスクつけて来ましたか?」 「来たわ」 「どんな様子ですか?」 「昨日にくらべると、妙《みよう》にテンションが高くなっているの。どうしてかしら?」 「彼《かれ》も火事を見たのかしら?」  それならわかると思った。 「そんなはずはないわ。彼の家は『フィレンツェ』とはかなり離《はな》れているもの」 「そうですか。じゃ関係ないか」  少し考え過ぎだと思った。 「今朝《けさ》のテレビ観《み》た?」  野口が聞いた。 「いいえ、今朝は寝坊《ねぼう》しちゃったので、新聞もテレビも観ていません」  そういえば、こんなことははじめてだ。 「テレビでも言ってたけど、朝刊で自殺した少年のこと、いろいろ書いてたわよ」 「どんなこと書いてました?」 「少年がマスクをかぶる理由について解説してたわ。現代のようにみんなからいつも監視《かんし》されてる時代には、自分を人の目から隠《かく》したい欲求がある。つまり透明《とうめい》人間になりたいってだれでも思う」 「そうですね。たしかにそう思うことはあります」 「マスクをかぶるということは顔を隠してしまうこと。だから自分の表情を見られることはない。一種の変身ね。変身したとたん、卑小《ひしよう》な自分は消えて、別の人間になれる」 「変身願望ですか?」 「これは、人間ならみんな持っていること。けれど現実にはなれない。それをマスクは簡単に別人にしてくれる。だからマスクをかぶりたいのではないか?」 「それはわかります。では、マスクを取られようとして、なぜ自殺までしなきゃならなかったんですか?」 「元の自分に戻りたくなかったんだって言ってるわ。現代の子どもたちは、仮面をかぶって生きている」 「それって、どういうことですか?」 「たとえば、親や教師の前では、本当の自分を隠していい子ちゃんを演じてみせる。これは仮面をかぶっていることじゃない? けれど、いつまでもかぶっていられないから、いつか爆発《ばくはつ》する」 「それってよくわかります。では、マスクをかぶるのはなぜですか?」 「今の子は、人前に素顔をさらす勇気がないのよ。だれかに何か言われはしないか。嫌《きら》われないか……。とにかく、まわりに気をつかい過ぎるから、結局おたくになってしまうんじゃないかしら。マスクは、素顔を隠してくれる。すると、だれにも気兼ねがなくなって元気が出るんだと思う。逆に言えば、だからマスクを取られることは死を意味することでもあるのよ」  野口の言うことを聞いていると、マスクをしている意味が少しずつわかってくる。 「田中君は、だれかにすすめられてマスクをかぶったと言ってました。けれど、それがだれかは教えてくれませんでした」 「自殺した子のこと知ってるって言ってた?」 「知らないと言ってました。けれど、ほかにもマスクをつけている子はいるって」 「そう、ほかにもいるの? それは問題ね」  野口は考えこんでしまった。     6  昼休み、貢が見せたいものがあると言ったので、校庭のポプラの木の下に行った。  五月も終りになると、陽《ひ》の光も強くなるので、木蔭《こかげ》が快い。 「これを見てみろ!」  貢は、ポケットから焼けた布きれを取り出した。  それは半分は焼けてしまっているが、プロレス用のマスクに違《ちが》いない。  よく見ると、田中のしているマスクにそっくりで、色は白ではなく黒であった。 「これ、どこにあったの?」  有季は聞いた。 「焼け跡《あと》で見つけたんだ。黙《だま》って持って来ちゃった」 「まさか、田中君のではないよね?」 「田中は、今朝もマスクをつけて学校にやって来たんだろう? だから違うと思うな」 「でも、もし田中君のだとしたら、放火したのは田中君かもよ?」 「田中が放火したんだったら、わざわざ自分のマスクをここに放って行くか?」 「それはそうね。じゃ、だれかが田中君に罪を着せるつもりで置いた」 「それだったら、このマスクは田中のものでなくてはならない」  貢も、すっかり探偵《たんてい》が板についてきた。 「ちょっと待ってよ。もしかして花屋のだれかがマスクマンだということ?」 「あの店は、もともとは洋品店だったんだけれど、三年前につぶれて花屋になったんだ。家族は父親と母親と子どもが一人」 「父親は何歳《さい》くらい?」 「進藤《しんどう》って名字《みようじ》だけど四十歳くらいかな。母親は伸子《のぶこ》といって年は同じくらいかな。子どもの綾《あや》は小学校五年生」 「それじゃ、主人の進藤さんがマスクをかぶってるのかな?」 「そんな姿は一度も見たことがない。それにあいそがよくて腰《こし》が低い。とてもマスクをかぶるなんて考えられないな」 「よくつき合ってるの?」 「店の花はみんなあそこで買ってるし、食事も親子三人でよく食べに来る。まあ、いいお隣《となり》さんって感じだな」  貢は進藤のことを信じきっている様子だ。 「マスクをつけてるから、変なやつとは断定できないんだから、進藤さんがマスクつけてても、どうってことないんだけど……」 「それはそうだ。じゃ、進藤さんに直接聞いてみるよ」 「そんなことして怒《おこ》らない?」 「そういう関係じゃないんだ」 「そうすれば、はっきりわかるわね。家は全焼しちゃったの?」 「半焼ってところらしい。家族が住んでるのは二階だけれど、建て直さなければ営業できないから、マンションを借りて、そこに引越《ひつこ》しするらしい」 「建て直すなんてたいへんね」 「火災保険がかかっていたから、それほどでもないらしい。なんといっても商品は花だから。おれんちだったらたいへんだよ」 「進藤さんって、だれかに恨《うら》まれてるってことはないの?」 「それはおれにもわかんない。しかし、外から見たところは平和な一家だった」 「この二カ月で三つの放火事件が起きてるわ。ちょうど一カ月に一回。このまま犯人を挙《あ》げないと、四回目が起きる可能性は大きいと思うの」 「そうだな」  貢がうなずいた。 「もし同一犯だとしたらこれまで三回の放火事件で共通するものがあるんじゃないかと思うの」 「もしかしたら、どこにもマスクがあったりして」 「まさか……」  有季は、貢がばかばかしいことを言うと思ったが、ふいに、もしそうだったら……という思いが頭をかすめた。 「どこの現場からもマスクの燃え残りが見つかったとしたら、こいつは面白えことになるぜ」  貢は、有季の反応を待っている。 「そうなったら面白いけど、でも、それはないでしょう」  有季は、一応貢の話を否定したが、もしかという気がしてきた。  その夜、探偵事務所から帰ろうとすると、花屋の主人進藤が店に入って来た。 「こんばんは。たいへんでしたね」  有季は、一応進藤にあいさつしておいた。 「いろいろご迷惑《めいわく》をおかけしました」  進藤は、店に出て来た貢の両親にあいさつした。 「とんだことでしたわね。しかも放火だなんて。犯人は見つかりました?」  貢の母親が言った。 「いいえ、わかりません。一階の店のほうは、夜間は無人になるので、ガラスを割って侵入《しんにゆう》したらしいのです」 「目的は何ですか?」  有季が聞いた。 「わかりません。火災保険|詐欺《さぎ》の放火かと疑われましたが、とんでもない。火災保険は大した額じゃないし、この分ではもう一度開店するのは無理でしょう」  進藤は憮然《ぶぜん》とした顔をしている。 「それじゃ、お店は辞《や》めてしまうんですか?」  貢の母親が聞いた。 「そういうことになると思います」 「せっかく仲良くなれたのに残念ね」 「ええ、本当に残念です。もう少しで開店の借金も返せると思ったのに」 「今度も花屋をやるんですか?」  貢が聞いた。 「ちょっと花屋はやれないと思う。資金もないから」  進藤は、思ったより冷静である。 「悔《くや》しいでしょう?」 「それはそうだが、これは運命と諦《あきら》めるしかない」 「そんなことはありません。犯人を捜《さが》し出すべきです」  有季が言うと、 「探偵さんに犯人捜しをしてもらいたいところだが、お金もない」  と進藤が言った。 「つかぬことを伺《うかが》いますが、おじさんプロレスは好きですか?」  貢が聞いた。 「まあ、ときどきテレビで観《み》るくらいだね。わざわざ試合を観に行くほどでもない」 「それじゃ、プロレスのグッズを買うなんてことはありませんね?」 「ないね」  進藤は、おうむ返しに答えた。 「それじゃ、これに見覚えはありませんか?」  貢は、ポケットから焼け焦《こ》げたマスクを進藤に見せた。 「ないね。これはどこにあったんだい?」 「焼け跡《あと》ですよ。ちょっと気になったので、ゴミの中から選《よ》り分けておいたのです」 「知らないね。私のものじゃない」 「すると、だれかが置き忘れたか……」 「こんなものをかぶってくるお客はいないよ」  有季は、進藤の表情の変化を観察していたが全然動じない。  進藤は、うそはついていないなと思った。 「すると、犯人が落していったのか……?」  貢が言った。 「放火犯人はマスクをつけていたというのかい?」 「そうではなくて、ポケットから落したのかもしれません」  進藤は首を傾《かし》げた。 「ちょっと信じられないな。しかし、マスクといえば、今朝のテレビでやってたじゃないか? マスクを取られそうになった中学生が窓から飛び降りて自殺したって」  貢の父親が言った。 「そうなんだよ。そのマスクはこれと一緒《いつしよ》なんだ」  貢が言うと、みんな急に黙《だま》ってしまった。     7  有季は、自殺した殿村《とのむら》という少年のことをもっと調べてみたいと思った。  新聞とテレビの報道だけでは、取扱《とりあつか》いは派手だが、その裏にあるものが見えてこない。  田中は、殿村のことを知らないと言った。本当に知らないのか、それとも知っていて知らないと言っているのか。田中の言葉だけでは信用できない。  殿村のことを知るには、彼《かれ》の友だちに会ってみればいい。矢場に電話すれば、だれか殿村を知っている人物を見つけ出せるかもしれないと貢が言った。  ——そうだ。矢場のことを忘れていた。  有季は、矢場のケータイに電話してみた。 「2A探偵局《たんていきよく》の有季です」 「しばらくだなあ。元気か?」 「ボチボチです」  有季が言ったとたん、矢場は笑い出した。 「ボチボチはよかった。電話してきたの、マスクのことだろう? どうだ、当りか?」 「当りです。さすがにいい勘《かん》してますね」 「君はマスク事件と関係あるのか?」 「ええ。変なことから関係を持ちました」 「それ、聞かせてくれないか?」  矢場に言われて、有季は田中のことを話した。 「そうか、そういうことがあったとは知らなかった。それは自殺のケースと似てるな」 「そうでしょう。偶然の一致《いつち》とは思えないんです。殿村のケース、取材してたら教えていただけませんか?」 「いいだろう。報道してない裏話を聞かせよう。あれはこういうことだ」  殿村は、もともと優しくおとなしい性格で、いじめグループのターゲットになっていた。  その日も、金をせびられていたらしく元気がなかった。  二時間目の授業が終ると、急にいなくなり、昼休みに戻《もど》って来たときにはマスクをかぶっていた。  はじめて見る殿村のマスク姿に、みんなは驚《おどろ》いた。殿村ではないのではないかと思った者もいる。  教師もびっくりして、マスクを取れと言った。しかし、彼はマスクを取るどころか、人が変ってしまったみたいに騒《さわ》ぎ出し、いじめグループに対して、これまでの恨《うら》み辛《つら》みを叫《さけ》び、暴れまわった。  最初は、そんな殿村に向かったワルたちも、まるでキレたみたいな殿村に恐《おそ》れをなし、遠巻きにして近づこうとしなかった。  手におえなくなった教師は、仲間の教師を呼びに行き、彼を取り押《おさ》えようとした。  教師の一人がマスクに手をかけた瞬間《しゆんかん》、殿村はその手に噛《か》みつき、そのまま窓まで走り、飛び降りてしまった。  それは一瞬の出来事で、だれも殿村を押えることができなかった。 「これが自殺までの経過だ」  矢場が言った。 「田中の場合は、マスクをかぶることによって、ネクラだったのが明るくなった。しかし殿村の場合は、それまでおとなしかったのが、急に凶暴《きようぼう》になってしまった。これ、どういうこと?」  有季は、矢場の電話を切ると貢に言った。 「まるで薬が効き過ぎちゃったみたいだ。エネルギーが一挙に解放されて、爆発《ばくはつ》してしまったみたいだ」 「マスクをかぶらなければ、キレることもできない。いつもは優しくて気が弱い。だからいじめの標的にされる。田中君と似てるわ」 「田中や殿村に、マスクをかぶらせた人間がどこかにいる。それを捜《さが》そう。殿村の親に会ってみたら、何かわかるかもしれない」 「そうね。会ってみよう」  有季は、矢場に電話して殿村の家の電話番号を聞き出した。 「おれも会おうと思ったけれど、どうしても会わない。ちょっと無理だろう」 「やれるだけやってみます」  有季は、貢と一緒《いつしよ》に殿村の家に出かけた。  マンションの一室で、ドアホンを鳴らしても、だれも出る気配はない。 「だれもいないね。帰るまで待とう」  廊下《ろうか》で一時間ほど待っていると、中年の女性が買物袋《かいものぶくろ》を提げてやってきた。 「きっとママだぜ」  女性は殿村の部屋《へや》の前までやって来て、ドアにキーを挿《さ》しこんだ。  貢がそばまで行って、 「おばさん、こんにちは」  とにっこり笑って言った。 「あなただれ?」  女性は、けげんそうに貢と有季の顔を見た。 「ぼくたち殿村君の友だちです。お参りがしたくて来ました」  貢が言った。こういうことが、とっさに口から出せるのが貢の長所だ。 「そう。じゃ中に入って」  女性は、簡単に言った。 「おばさん、殿村君のママでしょう?」 「そうよ」  その女性はうなずいた。 「殿村君があんなことになってショックです。彼があんなことするなんて信じられません」  ママは、二人を殿村の部屋に案内してくれた。  それは、ゲーム機やテレビ、それにマンガや本などが散らばっている、どこにでもある少年の部屋であった。  自殺を暗示させるようなものは何もない。  机の上に殿村の写真が飾《かざ》ってあった。見た瞬間、有季はまだ田中の素顔を見ていないが、こんな感じかなと思った。  いかにも気の弱そうな子である。  二人は、写真に手を合わせた。 「なんで、死んじゃったの?」  ママの目から涙《なみだ》が溢《あふ》れた。有季もつられて涙が出た。 「殿村君、マスク持ってたことご存知でした?」 「ええ、一カ月くらい前に、この部屋で見つけたの。どうしてこんなもの持ってるのって聞いたら、友だちにもらったと言ってかぶってみせたの。気味が悪いって言うと、そうかと言ってはずしたわ。それきり、マスクのことは忘れてたの」 「それじゃ、マスクをかぶって窓から飛び降りたと聞いたとき驚いたでしょう?」 「驚いたなんてものじゃないわ。ショックで何日かベッドから出られなかったわよ。今日やっと落ち着いたの」 「無理もありませんわ。うちのママだって私がそんなことしたら、ショックで病気になると思います」  有季は、突然《とつぜん》子どもを失ったママが気の毒になった。 「殿村君って勉強好きだったんですか?」 「塾《じゆく》にだけは毎晩行ってたけど、成績はさほどではなかったわ。本当に塾で勉強してるのって聞いたら、してるよと言ったけど、どうかしら?」  ママは、殿村が勉強しているという言葉は信じていないようだ。  すると、どこへ行ったのだろう?  2 追悼集会     1  野口のクラスで、マスクをつけて来る生徒が五人になった。  田中一人のときは特定できたが、同じマスクをつけているのが五人となると、それがだれか、野口も特定できなくなった。  そうなると、その中のAが学校を休み、替《かわ》りのだれかが混っても、全然わからない。  野口は、一人ずつ名前を聞いた。すると全員が、 「田中靖」  と言った。これでは、田中靖が突然《とつぜん》五人になってしまったことで、本物がだれかもわからなくなってしまった。  生徒たちはそれが気に入ったらしくて、次の日は、五人が十人になった。  こうなると、別の学校の生徒、高校生が混っていてもわからない。  自殺した殿村雅樹《とのむらまさき》のことが、テレビだけでなく、いろいろな媒体《ばいたい》で取り上げられるにつれて、マスクをかぶって登校する子どもたちが、都内のあちこちの学校で見られるようになった。それはまるで、新種のインフルエンザのように増殖《ぞうしよく》をはじめた。  やがて、これは全国に大流行するだろう。  いまのうちに手を打たないと、たいへんなことになると警告する社会評論家もいた。  雅樹が自殺して一週間後、野口が『フィレンツェ』にやって来た。  野口は、一目見ただけで落ちこんでいるのがわかった。 「どうしたんですか? まだ悩《なや》みがあるんですか?」  有季は、野口の落ちこみ方が気になった。 「マスクをつけてやって来る生徒が十人になったのよ。同じマスクをつけて、全員が田中靖というの」 「面白え」  貢は、手をたたいて喜んでいる。 「第三者にはそうかもしれないけど、私はパニックよ。まるでコピー人間が九人もあらわれて、だれが本物の田中君だかわからないんだから」 「それって、やってるほうは楽しいけれど、先生が困るのはわかります」  有季が言った。 「困るから楽しいんだよ。喜ばれたんじゃやってる意味ねえじゃん」  貢は無責任なことを言う。 「どうしたらいいかしら?」  野口が困りはてているのが手にとるようにわかる。 「そういうときは、じたばたしないほうがいいと思います。焦《あせ》らないことです。考え過ぎると円形|脱毛症《だつもうしよう》になりますよ」 「それがなってるのよ。円形脱毛症に。はげになったらどうしようと思うと、夜も眠《ねむ》れないの」 「先生、これはインフルエンザみたいなものです。先生一人で止めようとしても止められません。なるようになれと思えば、気が楽になります」 「あなたって、中学生なのにいいこと言うわね。本当に、そう思えば気が楽になるかもしれないわ」  野口は、有季が当りまえのことを言っているのに、やけに感心している。精神がまいっている証拠《しようこ》だ。 「今朝《けさ》のテレビニュースで観《み》たけど、マスクをかぶった暴走族があらわれたらしいぜ」  貢が言った。 「それ、私も観たわ。あれだと警察はたとえ写真を撮《と》っても、バイクに乗っていた人間を特定できないわね。こうなってくると、マスクは社会問題になってきそうな気がするわ」  野口は、不安そうな表情になった。 「強盗《ごうとう》とかマスクを悪用する連中が増えるのは問題ですね」 「おやじ狩《が》りやストーカーだって考えられるぜ。すると次はマスク狩りか?」  有季につづいて、貢が言った。 「何? マスク狩りって?」  野口が聞いた。 「マスクをつけているやつは、だれかれの別なく襲撃《しゆうげき》するんです」 「怖《こわ》い! でも起こりそう」  有季は、本当にそんなことが起きそうな気がしてきた。 「最初の意図と違《ちが》って、勝手に暴走し出したら怖いわね」 「先生、それは時間の問題だと思います。そのうちに、とんでもない事件が起きそう」 「それ、有季の予感か?」  貢が聞いた。 「そう。殿村君が死んだ二週間目に、追悼《ついとう》集会をやるってうわさがあるんです」  有季は野口の顔を見た。 「知らない。どこでやるの?」 「どこだかわかりませんが、やるらしいですよ」 「その追悼式はマスク着用ということになってるらしいです」  貢が言った。 「そんなのがたくさん集まったら不気味ね」 「ぼくは、行くつもりでマスクを手に入れたんです」  貢が言った。 「手に入るところ知ってるの?」 「知ってます。プロレスのグッズを売ってる店です。昨日買いに行ったら、すごく売れてるって言ってました」 「買ったの?」 「はい、買いました」 「ちょっと見せてよ」  野口に言われて、貢は奥《おく》に入ると、マスクを持ってやって来た。 「これがそうなの? クラスで見るのと同じだわね」  野口は、何度もなでまわしていたが、 「丈夫《じようぶ》そうね。少しくらい引っ張っても破れそうもないわね?」 「そりゃ、プロレス用ですからね。ちょっとやそっとでは破れません」  貢は、マスクをかぶって見せた。 「やめて。貢君が別のだれかに変身しちゃったみたい」  野口は、こわごわと眺《なが》めている。 「これかぶると、ぼくは消えてしまって、だれだかわからなくなるでしょう?」 「そうなの。それが不気味なのよ」 「だからかぶるんです。いっそのこと、先生もマスクをかぶったらどうですか? そうすれば生徒にうけますよ」  貢は、面白いことを思いつく。 「そんなことしたらクビよ。でも面白いかもね。やってみたい」  野口は、のってきた。 「先生、これちょっとかぶってみて」  貢は、かぶっているマスクを取ると、野口の顔にかぶせた。 「あそこの鏡で見てください」  貢に言われて、野口は鏡の前まで行った。 「きゃあ、怖い! 化けものだわ」  野口は、自分の姿を見るなり悲鳴をあげた。  有季はその姿を眺めながら、マスクをかぶったら、いつもなら恥《はずか》しくてできないことでも、平気でできそうな気がする。  自分でもかぶってみたくなった。     2  有季は、貢にマスクを買ってきてもらった。それをかぶって鏡の前に立つと、自分が自分でなくなったみたいで変な気持ちになる。 「それどうするんだ? 追悼《ついとう》集会に行くのか?」  貢が聞いた。 「それより前に、これつけて学校へ行ってみようと思うの」 「学校? 止《よ》せよ。そんなことしたら文句言われるぜ、それに、みんながなんと言うか……」  貢は、明らかに困惑《こんわく》している。 「みんながなんと言うか、それを知りたいの」 「ちょっとヤバ過ぎる気がするな。おれは反対だ」 「そう言うと思った。でもマスクかぶってみないと、田中君や殿村君の心は読めないと思うの」 「そうか、そこまで考えてるならやってみろよ。だけどヤバイと思ったら、すぐマスクをはずしたほうがいいぜ」  貢は、あいかわらず優しいところがある。  次の日、有季は学校の校門をくぐるとマスクをかぶった。  こうしただけで、もうだれともわからない。生徒たちが有季を見てけげんそうな顔をし、次には、「あなた、だれ?」と不気味そうに見つめる。  なかには、「ふざけるのやめてよ」と怒《おこ》る者もいる。  たちまち、まわりに人の輪ができた。  有季は何も言わず教室に入ると、自分の席にすわった。 「有季だ! どうしたの?」  いつも仲のいい友だちが寄って来て、口々に聞いた。  しかし有季は何も言わない。 「わかった。有季の顔にけがして見せられないのよ。そうでしょう?」  いちばん仲のいい浜本《はまもと》が言った。  それでも何も言わない。 「耳が聞こえなくなったのかもよ」  男子の小野《おの》が言うと、有季の耳もとで、ぱちんと手を鳴らした。 「みんなやめてよ。キレて窓から飛び降りるかもよ」  三沢《みさわ》が言ったとたん、みんなしんとなった。  みんなが騒《さわ》いでいる最中、国語の坂田《さかた》が入って来た。 「だれだ、マスクなんかかぶってふざけているやつは?」  坂田は、目敏《めざと》く見つけて言った。 「有季でーす」  三沢が言った。 「どうしたんだ?」  有季と聞いて、坂田は表情をやわらげた。有季は、坂田のお気に入りである。 「つけてみたかったのでつけました」  有季は、はじめて口を開いた。 「つけたけりゃ家でつけろ。学校でつけるのはルール違反《いはん》だ」  坂田のその言葉で、有季はマスクをはずした。 「人騒がせなことをしおって。有季らしくないぞ。どうだ感想は?」 「どうってことないです」  有季は、実際のところ、マスクをかぶってもなんてことはなかった。  何か起きるのではないかと期待していただけに、失望も大きかった。 「最近、マスクをかぶって得意になっている者がいるが、これは愚《おろ》かなことである」  坂田は、そう言うと授業をはじめた。  授業の間中、有季は田中と殿村にどうしてあんな現象が起きるのか考えていた。  あれはやはり、自分の素顔を見せることが怖《こわ》くてできない者が、マスクによって変身できるのだ。有季みたいに何も心にわだかまりがない者には、マスクをかぶったからといって、特別に何も起こらないのだ。  そんなことは当りまえのことだが、やってみて自分を納得させることができた。  授業が終ると貢がやって来て、 「もっと抵抗《ていこう》すると思ったのに、案外簡単にギブアップしちゃったんだな?」  と言った。 「マスクをかぶれば、当然のことだけれど、みんなは変な目で見る。それに対して自分はどうなるか? それを試してみたんだけれど、どうってことなかった。だから、いたずらに摩擦《まさつ》を起こすこともないと思ってはずしたの。ちょっと期待はずれだったな」 「有季ならそうさ。言いたいことしゃべって、やりたいことやってんだから、マスクの必要なんてないのさ。だけど田中や殿村みたいに、必要なやつはいるんだ」 「そういう人にとっちゃ、マスクは大切だよね。でも、このごろみたいにだれもがマスクをかぶると、必要な人がわからなくなるよ」 「すぐ悪のりする。こういうのって、ほめられたことじゃねえよな」  貢にしては、まともなことを言う。 「私、今日もう一つ実験してみるつもりなんだ」 「何するんだ?」  貢の表情が曇《くも》った。 「それは言えない」 「あんまりヤバイことやるなよ」 「うん、大丈夫《だいじようぶ》」  貢が心配そうな顔をしているのが、有季はちょっと気になった。  その夜、『フィレンツェ』からの帰り、有季はマスクをかぶってみた。  まだ夜の九時前なので人通りはある。向こうからやって来る人が、ぎょっとしたように立ち竦《すく》む。  有季は、まるでドラキュラにでもなったみたいな気になった。  しばらくして街を抜《ぬ》けると人通りが少なくなった。いつもだと夜おそいとき、この道を歩くのはなんとなく怖いのだが、今夜ばかりは怖いもの知らずだ。  これがマスクをつけた効用かもしれない。  そう思ったとき、うしろからだれかがつけて来る足音がした。  気のせいかな、と思って速足《はやあし》になると、うしろの足音も速くなる。速度を落すとうしろの足音も落し、決して距離《きより》をつめようとはしない。  つけられていることがはっきりわかった。  しかしストーカーではないだろう。こんなマスクをかぶった人間をつけるストーカーはいない。  人通りが絶えたとき、足音が近づいてきた。有季は走り出した。  少し走ったところで、石につまずいて転んでしまった。  顔を上げると、目の前に人の影《かげ》があった。手に棒を持っている。その棒を振《ふ》り上げた。  ——だめだ。  と思ったとき、男はなぐり倒《たお》されて、地面に長々とのびていた。 「危なかったですね」  男が近づいて来て言った。 「ありがとうございました」 「こいつはマスク狩《が》りです。マスクをかぶっている人間を見ると、襲《おそ》いたくなるんです」 「よくご存知ですね」 「ぼくは、マスク狩りを狩っているんです」 「そんな親切な人がいるなんて」 「ぼくは親切からやっているのではありません。あなた、マスクが好きなんですか?」  男が聞いた。 「マスクをかぶっていると、心が落ちつくんです」  有季は、口から出まかせを言った。 「それならいいところを紹介《しようかい》してあげます」 「は?」  有季は思わず男の顔を見た。 「今度の土曜日に、東京港の小公園で殿村の追悼《ついとう》集会があります。そこへ来ませんか。ぼくも行ってますから」 「追悼集会があるってことは聞きました。けれど、どこであるか知りませんでした。だれが集まるんですか?」 「それなら、マスクを好きな連中だけの集まりです」 「ぜひ行きます」 「では、そこで会いましょう。ぼくの名は小関《おぜき》といいます」 「私は有季です」 「いい名前ですね。では、ぜひ来てください。待ってます」  小関は、それだけ言うと行ってしまった。うしろ姿が闇《やみ》に消えると、  小関って、いったいだれなのだろう? 敵なのか味方なのか? 行っても大丈夫だろうか?  しかし、公園に行ってみようと思った。  殿村が死んで、二週間後、午後八時半から東京|埠頭《ふとう》の小公園で追悼集会が行われた。  公園の入口には、マスクをかぶった男たちが十数人いて、マスクをかぶっていない者は中に入れなかった。  素顔でやって来た連中は、入口でマスクをかぶり会場へ入って行く。  貢は、指定された黒いマスクをかぶって中へ入った。  そこでろうそくをくれ、口に赤のビニールテープを×印に貼《は》られる。  これは、口をきいてはいけないということか。  会場には、百人を越《こ》えると思われる人が集まっていたが、だれも口をきかないので、不気味に静まりかえっている。  貢のろうそくに、だれかが自分のろうそくの火を移してくれた。  明りはいっさいなく、無数のろうそくの焔《ほのお》がゆらめいている。  正面の台にマスクをかぶった等身大の少年の写真が飾《かざ》ってある。  それは、おそらく殿村と思われるが、マスクをかぶっているので、その下の表情はうかがい知ることができない。  場内には、レクイエムとは思えない騒々《そうぞう》しい曲が流れている。  貢は、近くにいる人に話しかけたくなった。 「あの……」  と言いかけた。するとその人は口に人差し指をあてた。  これは、しゃべるなというサインだろう。  貢は黙《だま》ってしまった。  殿村の写真に献花《けんか》もなく、追悼のあいさつもない。人々は頭を垂れ、黙って歩きつづけている。なぜか会場には悲しみのムードが漂《ただよ》っていた。  この中に田中もいるに違《ちが》いないが、捜《さが》し出すことはとても無理だ。  会場に流れていた音楽が消えて、沈黙《ちんもく》の瞬間《しゆんかん》が訪れた。  すると、それまで公園の向こうに壁《かべ》のように立ちはだかっていた高層ビルの窓に明りがついた。  みんなの視線がビルに向けられた。  そこには仮面が浮《う》かびあがったのだ。  みんなその光の絵に釘《くぎ》づけになった。しかし、それは三十秒ほどで消えてしまった。  それが追悼式を終えるサインだったのか、みんなぞろぞろと会場から出て行った。  貢も、会場を出るとマスクを取った。  貢のあとから出て来た少年も、マスクをはずしてバッグに入れた。  見たところ中学生だと思われたので、貢は追いかけて行って、 「君、中学生?」  と聞いた。 「うん」  少年の目に警戒心《けいかいしん》が宿っている。 「ぼく、こういうところへはじめて来たんだけど君もそう?」  貢は、つとめて気安《きやす》い調子で話しかけた。 「ぼくも来たのははじめて」 「どうして、話をしてはいけないんだ?」 「知らない。だけどみんな口に×印のテープを貼《は》られたから、しゃべっちゃいけないんだろう」 「そうだな。君の学校でも、マスクかぶって来るのいる?」 「いるよ」 「何人くらい?」 「三人かな」 「君もそのうちの一人?」 「うん」 「先公に文句言われない?」 「言われるさ。でもシカトだ」 「そうか。勇気あるな」 「君は、やったことないのか?」 「うん。うちの学校の先公ヤバイんだ」  貢は適当に調子を合わせた。 「君って、体の割にキモが小せえな。やってみろよ。やっちまえばこっちの勝ちさ。先公なんて、どうってことねえよ。そうすると気分がすかっとするぜ」 「そうかな。じゃやってみるかな」 「やれよ。やるなら一人より仲間をつくったほうがいいぜ」 「どうして?」 「決まってるだろう。何人かでやれば、だれがだれだかわかんなくなるじゃん」 「そうかあ」  貢は、大げさに驚《おどろ》いて見せた。 「ところで、さっきのビルの窓にだれが電気をつけたんだ?」 「知らない」 「何かのサインかな? それとも……」 「あんまり考えないほうがいいんじゃない?」 「だけど、気になるな」 「そのうち、気にならなくなるさ」  どうでもいいという少年の態度だ。 「おまえの連絡先《れんらくさき》を教えろよ」  少年に言われて、貢はEメールのアドレスを教えた。 「それじゃ、今度また何かあったら、ここに連絡するよ」 「頼《たの》む。君たちって会とかあるのか?」  貢が聞いた。  少年は、貢の質問には答えず、バス停にやって来たバスに乗って行ってしまった。  有季は、貢とは別々に会場に出かけた。貢と知り合いだということが知られないほうがいいと思ったからだ。  会場の入口に小関が待っていた。 「来たね。来ないかと思った」  小関は、有季に黒いマスクを渡《わた》してくれた。それをかぶると、目の前の小関が消えてしまったような気がする。  口に赤いテープを×印に貼られた。 「どうして?」  有季は小関に聞いた。 「今夜は、しゃべらないことに決めたんだ」  ろうそくを渡《わた》されて会場の中へ入った。百人は越《こ》すと思われる人たちがいた。 「この人たち会員なの?」  口に×印がついているので話しにくい。 「会員なんていない。来たい者が来ただけだ」 「でも、ここでこんな催《もよお》しがあることだれも知らないじゃない。どんな人が知ってるの?」 「今度君をつれて行くけれど、ぼくらは集まりを持ってるんだ。そこに入るにはマスクをかぶらなければならない」 「そんなことしたら、だれがだれだかわからなくなるじゃないの?」 「それだからみんな集まるんだ。自分のことをだれも知らない。相手のことも知らない。そこに集まる連中は、そういうことを知りたくないんだ」 「知らないほうが気が楽かもしれないわね」 「君もそう思うか?」 「思う」  有季は、小関の気をそらさないように、心にもないことを言った。 「だれだって、言いたいことはある。でも言えば相手を傷つける。そうなれば自分も傷つく。だから濃《こ》いつき合いはしたくないんだ」 「友だちは?」 「いるけれど、おたがいに深くは立ち入りたくない」 「傷つけないために?」 「そう」 「わかるわ」 「それともう一つある。そこでは、自分はだれにだってなりたいものになれるんだ。たとえば、ミュージシャンにもなれるし、スポーツマンにもなれる。もちろん秀才《しゆうさい》にだって。みんな、おたがいに言いたいことを言ってるけど、それがうそでも本当でも関係ないんだ」 「面白そう。私もやってみたい」 「それがわかれば、ぼくらの集まりに来いよ。きっと楽しいぜ」 「その集まり、だれが仕切ってるの?」 「だれも仕切ってない。いつの間にかできたんだ」 「そこでは、みんな言いたいことを言うの?」 「だれにも言えなくて、心の底に澱《おり》みたいにたまっているものを吐《は》き出すんだ。そうすると気分がすっきりする。毎晩来る者もいる」 「私もやってみたくなった。むかついていることいっぱいあるんだ。どうしても我慢《がまん》できないときは、壁紙《かべがみ》をナイフで傷つけたりしてるの」 「そういう子、何人もいるよ。言いたいことを言えば心は癒《いや》されるんだ。そのためにマスクが必要なんだ」 「わかる、ぜひ行ってみたい」 「じゃ、土曜の夜来いよ。午後七時に駅前で待ってる」 「そこ遠いの?」  有季が聞いた。 「電車で十分くらいだ」 「じゃ、おねがいするわ。さっきビルに現われたマスクの絵、あれ、何? あなたたちがやったの?」 「おれたちは、あんなことはしない。なぜあんなものが現われたのかわからない」  小関は本当に知らないと思った。 「その集まりに来る人、おたがいの名前も知らないの?」 「知らない。そのほうがいいんだ」 「知りたいと思わないかな?」 「いるだろう。そういう子はもうその集まりには現われない。それはそれでもいいのさ」  小関は何事にもこだわりを持ちたくないようだ。 「マスクしてるのは、その場所だけ?」 「それがルールだ」 「じゃ、殿村君のしたことはルール違反《いはん》ね?」 「そうだけれど、死んじゃったから、かわいそうと思って集まったんだ」 「みんな心が優しいのね」  有季は、そこに集まる連中に好意を持った。     3  有季が『フィレンツェ』に戻《もど》ると、そこに貢と野口がいた。 「おそかったじゃないか。だれかと話してたのか?」  貢が聞いた。  有季は、小関と出会ったいきさつを二人に話した。 「それ、大収穫《だいしゆうかく》じゃない?」  野口が目を輝《かがや》かせた。 「私は、あんな集会をやったんだから、だれかが仕切ってると思ったんですけれど、自然発生的にああなったんだって言ってました」 「すると、ビルに電気をつけたのはだれかってことになるわね?」  野口が言った。 「そうです。ビルには警備員がいますから、勝手に電気なんかつけられません。このことは、きっと警備員が警察に届けるでしょうから、明日になればどういう事情かわかるでしょう。でも、なぜそんなことをしたのか、目的がわかりません」 「そうね。小関っていう子の話と合わないわね」 「でも、彼《かれ》はうそはついてないと思います」  有季は、今でもそう信じている。 「マスクマンたちの集会ってのが面白いわね。こんな集会が東京のどこかで行われているなんて、面白いというか気味が悪いというか。魔女《まじよ》集会を思い出しちゃったわ」 「彼らは、そこで自分を解放してるんだと思います。こういうところが、今の世の中で必要と思いません?」 「そりゃ思うわ。いろいろしがらみがあって、自分の素顔をさらけ出すなんてことできないもの。仮にそんなことしたら、忽《たちま》ちつまはじきになっちゃうわ」 「だからマスクが必要なんです」 「そうね。そう考えると、そういう集まりがあってもおかしくはないわね。田中君もそこに行ってたのかしら?」  野口が言った。 「おそらく行ってたでしょう。でも、マスクはそこだけというのがルールなんです」 「それじゃ、田中君はルールを破ったってわけ? 何か罰《ばつ》を受けないの?」 「ペナルティのことは何も言ってませんでした。強い結束力を持った秘密結社なんてものじゃありませんから、ペナルティはないんじゃないですか。もしまた出かけて行っても、マスクをかぶっていれば、それが田中君とはわからないんですから、どうってことないんじゃないですか?」 「そうか、そうよね」  野口は、納得したようにうなずいた。 「あれから生徒たちはどうですか?」  有季は、気になっていたことを聞いた。 「教師は手出しをしないとわかったとたん、マスクをかぶって来る生徒がわっと増えたわ」 「学校側は、それに対して、どう対応してるんですか?」 「打つ手なしよ。とにかくあの自殺ショックで、どこの学校でも腫《は》れものに触《さわ》るように扱《あつか》ってるわ」 「そうなったらつけ上って悪のりするでしょう?」 「そうなのよ。十人もマスクをかぶってたら、だれがだれだかわからないじゃない? 自分はさぼってだれかが代りに来ても、チェックのしようがないの」 「このままいったら、それこそ学校|崩壊《ほうかい》ですね」 「まさしく、あの連中は覆面《ふくめん》デストロイヤーよ」  野口は両手を上げて、お手上げのポーズをした。 「そのうち、事件が起きるぜ」 「どんな事件?」  野口は、貢の顔を見た。 「みんなと同じマスクをかぶってやれば、犯人|捜《さが》しは難しいです。逆にいえば、それだけ犯罪がやり易《やす》いってことです。きっとそれを悪用する連中が現われます」 「アッシーの意見には、私もさんせい。悪い予感がします」  有季も、そのことを考えると不安がふくらんでくる。 「いま、マスクは流行になったから、きっと全国の中学校に拡《ひろ》がるかもしれないわね」  野口が言った。 「地方では、マスクを手に入れることは難しいから、手作りのものでやるかも。日本中の中学生がみんなマスクかぶっちゃったら、総理大臣も放っておけないだろう。マスクを取って、堂々と素顔を見せなさいって言うかな?」  貢はのってきた。 「それより、国会で全員がマスク着用の日ってのを作ったらどうかしら。その日は、党とかいろんなことにしばられず、本音で討論するなんて」  有季が言うと、すかさず野口が、 「学校だってそれは言えるわ。マスクかぶって言いたいことが言えたら、教師だってさぞかしすっきりするわよ」  と言った。 「先生がマスクをかぶって教室に現われたら、生徒たちは驚《おどろ》くぜ。そんな光景、考えただけでわくわくするな。先生、マスクかぶって学校に行ったらどうですか?」 「それ、面白いアイディアね。マスク取れって言っても言うこと聞かないんだから、そういう手もあるかもね。これは逆転の発想だわ」  野口は、しきりに感心した。 「大人《おとな》ってのは、すぐ強圧的になって力ずくで子どもに言うことを聞かせようとする。昔はそれで言うことを聞いたかもしれないけど、今はそういうのは流行《はや》らない」 「貢君、いいこと言うわね」 「川の流れにさからってはだめ。疲《つか》れるだけ。だから先生たちはパワーを失《な》くしてるんです。やり方を変えればいいのに、わかってないんだな」 「今日は、いい勉強になったわ」 「先生は、そう考えるだけ頭が柔軟《じゆうなん》なんです。子どものくせに生意気なこと言うなって先生は、もう時代に合わないんだから、リストラしたほうがいい」 「過激なこと言うわね」 「会社なら、とっくにリストラされてるのになあって先生がよくいますよ」 「耳が痛い。貢君本当のこと言うから」  野口は耳を押《おさ》えた。 「先生。マスクかぶって教室に行けますか?」  有季が聞いた。 「まだ、ちょっとそこまではねぇ」  野口はためらっている。 「先生は、まだ本当に深刻だとは思ってないんです。そこまで追いつめられれば、きっとやると思います」 「私がマスクをかぶるの?」 「それしか解決の方法はありません」  少し言い過ぎかなと思いながら、有季は野口の顔を見た。  野口は、壁《かべ》の一点を凝視《ぎようし》したまま沈黙《ちんもく》していた。     4 「花屋の放火犯はどうなった?」  有季は貢に聞いた。 「昨日進藤さんが来たけれど、まだ見つかってないってさ」 「マスクのこと何か言ってた?」 「あれはすごく気にしてる。逆に質問されちゃったよ」 「やっぱり何かあるね」 「娘の綾に聞いてみた」 「何か言った?」 「お父さん、あれからおどおどして、何かに怯《おび》えてるみたいだって」 「そんなこと言ったの? もう一度放火されることもないんだから、怯えてるってのは、ちょっと気になるね」 「そうなんだ」 「するとあのマスクは警告だったのかもしれないよ。火をつけたのはおれだっていう……」 「……ということは、進藤さんの過去には何かあるってことか?」 「そうよ。進藤さんの過去を調べてみる必要があるね。それと同時に、ほかの二つの放火事件も」  有季はテレビ局の矢場のケータイにダイヤルした。すぐに矢場の声が聞えた。 「有季です。こんにちは。追悼《ついとう》集会行きましたか?」 「行ったとも。君は行ったのか?」 「行きました。矢場さんに会いませんでしたね?」 「会ってもわからないよ、あの姿じゃ。マスクってのはいいな。このおれが若いものの中に紛《まぎ》れこんでもわからないんだから」 「アッシーも会場に行ったんです。取材はできなかったでしょう?」 「だれもしゃべらないからな。しかし、あのムードはよかった」 「あれって、だれかが演出してると思いますか?」 「そのとおりだ。だれかがうしろで糸を引いているとみた」  矢場も、そのことが気になっていたらしい。 「私、そのことを聞いてみたんですけれど、あれは自然発生的なもので、だれにも仕切られてないって」 「それじゃ、あのビルのマスクは何だ?」 「ビルの窓の絵、見たんですか?」 「いやでも見える」 「撮《と》りましたか?」 「あれを撮らずにテレビ屋といえるか?」 「やっぱりね。なんであんなことしたと思いますか? 自殺した殿村君の追悼のためですか?」 「それだけではないな」 「何ですか?」  有季は、惚《とぼ》けて聞いてみた。 「有季、おまえ、おれを試す気か? 何かつかんでるな?」 「鋭《するど》い! さすがぁ」 「またおちょくりやがって。おれは二十何年もテレビでめし食ってんだ。それで、まだ干されてないことを忘れるな」 「それでは聞きますが、あのビルの電気はだれがつけたのか調べましたか?」 「当りまえだ。そんなことを調べるのは取材のイロハだ」 「すごい! 感心しました。実は、そのことを矢場さんに調べてもらいたいと思ってたんです。どうだったんですか?」  有季が聞いた。 「あの夜、九時少し前、三人組の男が警備員の詰所《つめしよ》に入って来て、いきなり警備員をロープでしばりあげて目隠《めかく》しした。それからのことは覚えてない。ふたたびロープを解かれたのは九時過ぎで、男たちは帰って行った。その間十分くらいだったそうだ」 「それじゃ、警備員は何も知らないんですね?」 「そうだ」  矢場が言った。 「矢場さんは、あの集会をやった連中と、ビルの電気をつけた連中とは関係あると思いますか?」 「関係あると見るのが自然たろう」 「私はないと思います。理由は、ビルにわざわざ電気をつける意味がないからです」 「それはたしかにそういえる。すると、電気をつけたのはだれだ?」 「わかりません」 「おれに電話した用件はほかにもあるんだろう?」 「この二カ月ほど前から放火事件があるでしょう? つい最近は、私の事務所の隣《となり》の花屋です」 「そうか、あれは『フィレンツェ』の隣だったのか。単なる放火事件としてしか関心がなかった。それがどうかしたのか?」 「あの焼け跡《あと》に、焦《こ》げたマスクが落ちていたのです。殿村君がつけていたのと同じマスクが……」 「その花屋の主人、プロレス・ファンなのか?」 「いいえ、ご主人は進藤さんといいますが、アッシーがよく知っているので聞いたところ、自分は知らないと言ったのです」 「すると、犯人のものか?」  矢場が聞いた。 「常識的にいって、マスクをつけて放火する犯人はいないんじゃないかと思います。仮にいたとして、それを脱《ぬ》いで落すというのは不自然です」 「そのとおりだ。すると考えられることは、進藤氏が知っていてうそをついたか……」 「進藤さんは、三年ほど前、隣に引越《ひつこ》して来て花屋をはじめたんだそうですが、人柄《ひとがら》もよくて、うそをついたり、人から恨《うら》まれたりするような人ではない、とアッシーは言っています」 「そういう印象は当てにはならないが、しかし、同じマスクというのが気になるな」 「私はこう考えたんです。これは放火犯の警告じゃないかって」 「放火犯が置いていったというのか?」 「ええ、全焼だったら、そんなものを置いても焼けてしまってなんにもなりません。けれどあの火事は半焼です。もともと放火するだけでよかったんじゃないでしょうか?」 「いいところをついている。しかし、なぜマスクなんだ?」  矢場が聞いた。 「それなんです。アッシーが進藤さんにマスクを見せてから、気のせいか元気がないみたいなんです」 「火事に遭《あ》えば、だれだって落ちこむのは当りまえだ」 「それはそうですが、進藤さんの娘さんの話によると、何かに怯《おび》えているようなんだって」 「そいつは、ひっかかる話だな」  矢場の声の調子が変った。 「でしょう。だから私は、第一の放火事件と第二の放火事件を矢場さんに調べてもらいたいんです。三つに共通する何か、たとえばマスクが発見されたら、今度のマスク事件の背後にとんでもないものが、ひそんでいると思うんです」 「君も、だんだん一人前になってきたな」 「それはどういう意味ですか?」  有季は、少しばかりかちんときた。 「前から君のことはハンパな少女ではないと思っていたが、今の話を聞くと、おれはギブアップと言わざるを得ない」 「それは、オーバーです。私は自分の限界を知っています。このマスク事件の真相をつかむには、どうしても矢場さんの力が必要なんです」 「よし、わかった。力になろう。というよりこれはおれの仕事でもある。一緒《いつしよ》に頼《たの》むとこちらから言いたい」 「矢場さん、ずいぶん人間ができてきましたね」 「こいつ、またまたおちょくりやがって」  矢場は、上機嫌《じようきげん》で電話を切った。     5  翌日矢場から有季に電話があった。 「第一の放火事件について調べてみた。結果は次のとおりだ」  第一の事件の被害者《ひがいしや》は杉浦力哉《すぎうらりきや》、五十一|歳《さい》である。  職業は私鉄のK駅の近くで不動産業を営《いとな》んでいる。  高額の不動産取引きはめったになくて、貸し家の斡旋《あつせん》が主である。  そのあたりは家が建てこんでいて、大火にならなかったのは不幸中の幸いだったと近所の人は言った。  火事が発生したのは、三月|下旬《げじゆん》の午前三時ごろで駅裏の路地にあるその一帯は、人の往《ゆ》き来もほとんどなかった。  たまたま、そのあたりを歩いていた酔《よ》っぱらいが発見し、すぐ一一九番したので、大事にならなかったが、発見が遅《おく》れれば間違《まちが》いなく大火事になっていた。  火事の発生原因は、事務所に置いてあった石油ストーブであった。  午後六時に店を閉め、社長の杉浦と従業員の末野喜美子《すえのきみこ》は帰宅した。  その日は、ぽかぽか陽気だったので、石油ストーブはつけなかったと喜美子は証言した。  ストーブの上にはダンボール箱が置いてあり、その中に石油をしみこませたぼろ布が入っていた。  おそらく、石油ストーブに点火してから、ダンボール箱が発火するまで、数分、あるいは十分くらいだったに違いない。  犯人は点火してすぐ店を出たのだろう。ここには裏口はないので表口から出たと見られるが、人通りもないので目撃者《もくげきしや》は見つからなかった。  杉浦がここで不動産業をはじめたのは昨年からである。それまでは三鷹《みたか》市でスーパーに勤めていた。  不動産業をはじめるきっかけは、たまたまそこで商売をやっていた友人が病気になり、あとを引き受けてくれないかと言われたことと、会社でリストラ要員にあがったことを知ったからであった。  不動産業のほうは、立地も駅前でよく、長年やっていたこともあって、薄《うす》いながらも利益はあげられ、親子三人が生活でき、従業員一名を雇《やと》う余裕《よゆう》もあった。  火事はぼやで済んだので、一週間後には営業を再開することができた。  矢場は、杉浦が不在だったので従業員の末野喜美子に、いろいろと聞くことができた。 「商売は儲《もう》かってるのか?」  矢場は、当りさわりのないところから聞きはじめた。 「儲かってるってほどでもないけど、まあまあかな」  喜美子は、たばこを口にした。吸っていいかとも聞かない。 「社長は気前いいほうか? それともけちか?」 「ケチ」  間髪《かんぱつ》をいれずに言った。 「社長の趣味《しゆみ》は何?」 「ギャンブル。マージャンと競馬」 「強いのか?」 「弱い。負けてばかり」 「社長って、前はスーパーに勤めていたらしいな?」 「そうらしい。過去のことはあまりしゃべらないから知らない」 「君は、火事の前から勤めていたのか?」 「うん」 「火事があってから、社長落ちこんでいなかったか?」 「そうでもないよ。火災保険が入ったから」 「放火だということになってるんだろう?」 「そう。社長が人に頼んで放火させたんじゃないかって。でも証拠は見つからなかったみたい」 「それが事実か?」 「私は知らないけど、そういううわさがあるのはたしか」  喜美子は、それ以上のことは知らないようだった。 「最近、社長のところへ変な電話はかかってこないか?」 「変な電話って?」 「脅《おど》かしとか……。社長がしょぼんとなるような電話さ」 「それはあったよ」  喜美子は、あっさり言った。 「いつだ?」 「一カ月くらい前だったかな、すごくいばった口調で社長出せって言うの。それで社長に替《かわ》ったんだけど。社長は弁解ばかりしてた。その日は急に元気がなくなって、早目に帰っちゃったわ」 「電話してきたのは男か、それとも女か?」 「中年らしい男」 「ヤクザみたいだったか?」 「そうじゃないみたいだったけど、感じはよくなかった」 「社長を知ってる人間か、それともはじめてみたいだったか?」 「知ってるみたいだった」 「逃《に》げてたって感じか?」 「そう、そんな感じだった」 「ところで、社長はプロレス好きか?」 「好きってほどじゃないみたい」 「マスクとか、そんなものは持ってないか?」 「持ってない」  喜美子は、首を振った。 「そうか、放火される前、ほかにも怪しい電話がかかってきたということはないか?」 「あったわ。放火される一カ月くらい前から」 「どんな電話だ?」 「何も言わないで切れちゃうの」 「そのこと社長に話したか?」 「もちろん話したわよ」 「社長は何か言ったか?」 「何も、いたずら電話じゃしかたないって」 「それっきりか?」 「そう。いったい何を聞きたいの?」  喜美子が言った。 「だれか、社長に恨《うら》みを抱《いだ》いている者はいないか、それを知りたいんだ」 「そういえば、火事の二日前だったかな、変な小包みが届いたの。あけてみろって言うからあけてみたら、なんだと思う?」 「そんなこと知るわけないだろう」 「プロレスのマスクよ。社長に、注文したんですかって聞いたら、捨ててしまえと言われたわ」 「それ、こんなマスクだったか?」  矢場は、殿村のマスクを思い出して描《か》いてみた。 「そう。それにそっくり。真っ黒だったけどね」 「手紙みたいなものは入ってなかったのか?」 「なんにも入ってなかった」 「それきりか?」 「うん。それきり」  喜美子は、もう帰ってもいいかと言うので、矢場はもう一つだけ聞かせてほしいと頼《たの》んだ。 「火事の日、社長はずっと店にいたのか?」 「その日はずっと外に出ていて帰って来たのは午後六時、社長が帰ろうと言うので二人|一緒《いつしよ》に帰った」 「ありがとう」  以上が矢場の報告であった。  マスクが送られてきたというのは重要なサインだ。これで花屋の放火との共通項《きようつうこう》が見えてきた。     6  第二の放火事件についても、矢場に調査を頼んだ。  池島和久《いけじまかずひさ》、彼《かれ》が第二の放火事件の被害者《ひがいしや》である。  池島は、東京の墨田《すみだ》区でコンビニエンスストアをやっていた。  コンビニエンスストアは、家族で一日二十四時間労働して、やっと利益が出るという商売であった。  池島は夫婦二人である。二人だけではやれないので、夜はアルバイトの学生を頼んで営業をつづけていた。  放火されたのは四月の下旬だった。  客の入りも絶えた午前二時ごろ、三人組の男が入って来た。その中の一人は黒いマスクをしていた。  アルバイトの学生|辻《つじ》は、見たとたんヤバイと思った。  三人に取り囲まれて、金を出せと言われたとき、彼は素直に売り上げ金を差し出した。  金を受け取った三人組は、持って来た二リットル入りのビニール製のペットボトルから液体を床《ゆか》に撒《ま》いた。  においでガソリンだと思った。男たちは、それに火をつけると、辻をつれて店の外へ出た。  店の前に駐《と》めてあった車に押《お》しこめられると、車は急発進した。  そのとき、ふり向いて店を見ると、すでに内部は火の海だった。  しばらく走ってから、辻は人気のない道に放り出された。  夜の道を歩きつづけて、ようやく公衆電話ボックスを見つけると、一一〇番した。  店に火をつけられた事情を警察に説明した。  パトカーに迎《むか》えに来てもらって、やっと店に着いたとき、あたりは消防自動車と野次馬でいっぱいであった。  店の主人の池島もそこにいた。池島の自宅は店の裏手にある。  池島は、夜トイレに起きたとき窓が真っ赤で、店が火事だと気づいた。  すぐ一一九番して店に行ったときは、もう手がつけられないほど燃えていた。  池島は、この店を三年前からはじめた。その点は進藤の花屋と同じである。  それまではサラリーマンをやっていた。会社の名前と職種はかんべんしてくれと言った。 「けれど、こんな店を持つにはお金が要ったでしょう? 退職金ですか?」  矢場が聞いた。 「退職金なんて微々《びび》たるもので、親に出してもらったんです」  池島の親は、静岡県でかなりの資産家なのだと言った。 「だから、もう一度新装開店できたんですね?」 「そうです。親がいなかったら夜逃《よに》げですよ」  池島は屈託《くつたく》のない笑顔を見せた。これまでに、金の苦労をしたことはないお坊《ぼ》っちゃん顔だが、目つきは鋭《するど》い。この顔の裏に何かありそうな気がした。 「いい身分ですね」 「それほどでもない。これでも苦労してるんです」 「何の苦労? 女ですか?」 「実はそうなんです」  池島は、思ったより口が軽い。これだと取材はやりやすい。 「池島さんのタイプはもてるに違《ちが》いない。女なんて、いい苦労じゃないですか? 羨《うらやま》しい」 「とんでもない。いま、にっちもさっちもいかなくなってるんです」 「ほう」 「こんなこと、マスコミの人に話すのはまずいんですが、オフレコで頼みますよ」 「いいです」  矢場は、大きくうなずいて見せた。 「実はテレクラで悪い女にひっかかったのです」 「女はいくつですか?」 「十八|歳《さい》だと言ってますが、本当の年齢《ねんれい》はわかりません」 「どんなことがあったのか、具体的に話してくれませんか?」  矢場が言うと、池島は少しためらってから、 「お恥《はずか》しい話ですが、彼女《かのじよ》とホテルに行ったツーショットを撮《と》られて、それで脅迫《きようはく》されているのです」 「いくらくらいですか?」 「百万円です」 「ずいぶん高いですね? それで払《はら》ったんですか?」 「いいえ、まだ払っていません」  池島は、他人ごとみたいに言った。 「警察に通報すればいいじゃないですか?」 「実は、そう言ったら放火されて、売り上げ金を奪《うば》われたんです」 「売り上げ金はいくらですか?」 「こちらは大したことない。十五万少々です」 「すると、放火したのはその関連ですね?」  矢場は、突っこんで聞いてみた。 「そうと断定はできませんが、私はそうだとにらんでいます」 「そのことを警察に言いましたか?」 「言いませんよ。そんなこと」 「恐喝《きようかつ》はもうなくなりましたか?」 「実は、昨日またあったのです。金を寄越《よこ》せって」 「しつこいですね。今度こそ警察に言ったほうがいいです」 「そうですね」  池島は考えこんだ。 「強盗の三人組ですが、その一人はマスクをかぶっていたと言いましたね?」 「そうらしいです」 「どんなマスクですか?」 「覆面《ふくめん》レスラーがかぶっているようなものらしいです」 「池島さんは、マスクに見覚えはありませんか?」  矢場は、池島の顔を見た。しかし表情は変らない。 「ありません」 「この二カ月に、おたくを含《ふく》めて、立てつづけに三件の放火事件があったのです」 「そうですか」 「その三件とも、マスクが関係しているんですよ」  矢場は、第一の事件と第三の事件を説明した。 「不思議というか、不気味ですね。しかし、心当りはまったくありません」 「進藤さんと杉浦さんもご存知ありませんか?」 「ありません。今はじめて聞く名前です」 「そうですか。その三人組は警察に通報したほうがいいですよ。恥《はじ》だといって隠《かく》していたら、もっとつけ込まれますよ」  矢場は、そう忠告して池島と別れたが、池島の女の話はうそだと思った。 「三つの放火事件のどれにもマスクが関係しているということは、三人とも知らないと言ってるけど、何かでつながっているね」  有季は、そう確信した。 「知っていて知らないと惚《とぼ》けたか。それとも三人は本当に知らないのか、どっちともいえないな。テレクラの女も怪《あや》しいぜ」  貢の言うことも、もっともだと思えてくる。 「そうね。池島さんは過去に何かやったことを隠している。それは、ほかの二人にもいえると思う」 「なぜ隠すんだ?」 「それが何かわかればいいのにね。三人ともマスクがからんでいる。それは一人の人間か? ビルにマスクの映像を映し出した人間と同じかな?」 「同じだったらどうなんだ?」  貢が聞いた。 「ビルの映像は、三人に対する警告かも」 「三人のために、わざわざビルに明りはつけないだろう。きっと別に目的があるんだ」 「そういえばそうだね」  有季も、これといった自信はない。 「それにしても、最初はマスクをかぶる田中君をどうしたらいいという話だったのが、殿村君が自殺して、それがマスメディアに乗っかると、あれよあれよという事態になっちゃったね」 「もう殿村が自殺したことなんて、どうでもよくなっちゃったんだ」 「まるで全国の子どもたちが、仮面|舞踏会《ぶとうかい》でもやっているみたい。どうなっちゃうんだろう?」 「そのうち国会でも問題にされるぜ」     7  有季は、朝の六時ごろからテレビニュースを見ている。  この時間帯は、どこも朝のニュースとその日の新聞の見出しを紹介《しようかい》している。  これだけ見れば、世の中の動きはわかってくる。  その日の朝、テレビをつけた有季は、   隅田川《すみだがわ》に水死体 顔にはマスクが  という見出しを見て、テレビから目が離《はな》せなくなった。  水死体が発見されたのは、明け方の午前四時ごろだが、東京湾に向かう漁船が、河口で漂《ただよ》っている水死体を見つけた。  顔にマスクをつけていたので、生きているか死んでいるかわからなかったが、近づいてみると明らかに死体であることがわかった。  遺体は、水上警察に回収され、現在司法|解剖《かいぼう》して死因を調べているという一報であった。  有季が学校に行こうと支度《したく》していると矢場から電話があった。 「マスクをかぶった水死体のニュース見たか?」  矢場が言った。 「ええ、見ました」 「あのほとけさん、だれだと思う? 池島だ」 「池島というと、矢場さんが会った第二の被害者《ひがいしや》ですか?」 「そうだ。遺体は死後一日過ぎている。というと、おれが会った日に死んでいる」  矢場の声は暗い。 「たしか、恐喝を受けているということでしたね?」 「そうだ。おれは警察に通報したほうがいいと言った」 「通報したんですか?」 「調べてみたんだが、どこの警察もそういう通報を受けていない」 「何も言わなかったのに、なぜ殺されたんですか?」 「考えられるのは、要求に応じて金を払《はら》わなかったということか」 「でも、それで殺してしまうなんて、ずいぶん乱暴ですね。水死ですよね?」 「いや、窒息死《ちつそくし》だ。水は飲んでいない。ということは死体を川に投げ捨てたのだろう」 「どこで捨てたかはわかりませんね?」 「まだわからん」 「矢場さんに会ったあと、被害者のところに金を寄越せという電話があった。被害者は金を払わないと断わった。そこで殺してしまった」 「結果はそういうことになるが、殺すまでの間には、いろいろな問題があったのだろう」 「マスクに関係ありますか?」 「それは直接ないだろう。マスクのことは、どこでも問題になっていない。もっとも、それは、コンビニ強盗《ごうとう》がかぶっていたという話なのだから、今度の事件とは関係ないと警察は見ているようだ」 「私は、水死体にかぶせられたマスクと、田中君のマスクとは関係ないと思うんですけれど」  有季が言った。 「最近は、どこもマスクだらけだから、本物とにせ物との区別がつかん。もっとも、それがマスクの特徴《とくちよう》でもあるんだけれど」 「捜査《そうさ》を混乱させるために、故意にマスクをかぶせたのか……?」 「それも考えられる。見せしめのためともいえる。そうなると、杉浦と進藤も危ない。今日にでも会ってみようと思っている」 「そのほうがいいですね」  矢場に言われて、有季も急に不安になった。  田中に会って、いろいろと聞いてみようと思った。  有季と貢は、その日学校が終ると田中の家に出かけた。  外で一時間ほど待っていたが、田中は帰って来ない。貢だけ残って、有季は帰った。  田中はそれから三十分ほどして帰って来た。  貢は、田中と会った結果は、次のようだったと有季に言った。  その日、田中はマスクをつけていなかった。 「今日のニュース見たか? マスクをつけた死体」  貢が聞くと田中は、 「見たよ」  とそっけない調子で言った。 「どんなこと感じた?」 「別に……」  と言う。この問題には触《ふ》れられたくないのかもしれないという感じだった。 「おれたち、君にヤバイことがあってはまずいと思ってやって来たんだ。どこに行ってた?」  貢が言った。 「ちょっと。ヤバイことなんてないよ」  田中には、マスクをつけていたときのような快活さはない。 「もうマスクはつけないのか?」 「そうでもない」 「マスク取ったら元に戻《もど》っちゃうんじゃないのか?」 「そうかも」  田中は力ない声で言った。 「マスクつけてると、ヤバイことが起きるからか?」 「そうかも」  田中は、どうでもいいという感じだ。 「君、いまも集会に行ってるのか?」  貢が聞いた。 「集会?」 「この間聞いたよ。君たちの集まりに出ているある人から。今度そこへつれて行ってもらうことになってるんだ」 「そうか」  田中の声が急に元気よくなった。 「いろんなこと聞いたぜ。あそこでは、みんな言いたいこと言うらしいな?」 「そうなんだ。自分がだれだか、だれも知らないから言いたいこと言えちゃうんだ」 「おたがいに知らないからいいんだよな?」 「そうなんだ」 「行くと気分が晴れるんじゃない?」 「そのためにみんな来るんだよ」 「それじゃ、こんなことになって、みんな困ってるんじゃない?」 「ぼくがマスクかぶって学校に行かなきゃよかったんだ」  田中の声がふたたび暗くなった。 「だけど、君は学校で明るくなれたんだからいいんじゃない?」 「だけど、だれも彼《かれ》もかぶっちゃったんじゃ、そのうち剥《は》がされるのは時間の問題だよ。そうしたら、また元に戻っちゃう。それがいやなんだ」 「殿村君みたいに、自殺なんかするなよ」 「それはしないよ」  そう言う田中の声に、力がないのが気になった。  3 少年たちが消える     1  有季は、小関が言った土曜日の午後七時に駅へ出かけた。  あのとき、ああは言ったけれど、小関は来ないかもしれない。それならそれでもいいと思って駅の構内に入ると、うしろから肩《かた》をたたかれた。ふり向くと小関だった。 「来ないかもしれないと思っていた。よく来たな」 「私もそう思って来たの」  有季が言うと小関は、 「おたがいに人間不信だな」  と微笑《わら》った。きれいな歯が印象的だった。 「じゃ、行こう」  小関は自動|券売機《けんばいき》で、きっぷを二枚買って一枚を有季に渡《わた》した。 「お金払《はら》うわ」  と言うと、 「ぼくが招待したんだからいい」  と言った。その言い方がとても爽《さわ》やかで、どうして小関みたいなのがマスク集会に出かけるのか不思議な気がした。 「君が今何を考えているか当ててみようか?」  ホームに上ったとき、小関が言った。 「私の心がわかるの?」 「わかる。君は、どうしてぼくが集会に行くのか、不思議に思ってる」 「当った。どうして?」  背の高い小関を見るときは、どうしても顔が上向きになる。 「簡単なことさ。君はマスクマンはネクラと思っている」 「そう」 「だから、ぼくみたいなおしゃべりは似つかわしくない」 「そのとおり」  こういう話のし方、小関は、ちょっと真之介に似ていると思った。 「みんなは、心を癒《いや》すために集会に行く。君もそうだと言った」 「ええ、そう」 「しかし、君は違《ちが》う。そんな目的で行くんじゃない」 「どうしてわかるの?」  有季は、改めて小関の顔を見返した。  ——この男、ただものでない。 「君のこと調べたんだ。そうしたら探偵《たんてい》だということがわかった」 「ばれちゃしかたないわね。たしかに私は探偵。マスクをつけた集まりが、どんなものか調べるために行きたいの。こういうのはお断わり?」 「いや、あそこはだれが行ってもいいんだ。断わる理由はない」  もしかして、あの集まりを仕切っているのは小関だろうか? 「言っておくけど、ぼくはボスでもなんでもない」  また先まわりして言われてしまった。 「じゃあ、なんのために行くの?」 「行って、みんなの話を聞くのが面白いからさ」 「自分では何も言わないんでしょう?」 「どうしてわかる?」 「それくらいわかるわよ」 「そうか、探偵だものな。お見それしました」  小関は、おどけて頭を下げた。 「小関さんって、何考えてるのかしら?」  有季は、小関の目を見つめた。その目は遠くを見つめていた。  電車がホームに入って来た。 「ぼくはいつも白紙、何も考えてない。別の言葉で言うとアホ」  有季は、思わず笑ってしまった。 「小関さん、私のことをなめてるわね。どうせ何もわかりはしないって。小関さんの考え見え見えよ」 「今度は、ぼくが心を読まれる番か?」 「読まれるとまずいことあるの?」 「いや、君なら読まれてもいい。ただし、自分では言わない。どう読むかは君の自由だ。当っても当らなくてもいい」 「小関さんって不思議な人、不気味な人って言ったほうがいいかもしれない」 「じゃ、ぼくも言わせてもらう。君って、すてきな人だ」 「そういうことを言う人ははじめて。要注意ね」 「ぼくはからかっているんじゃない。本当のことを言ってるんだ。警戒《けいかい》するかい?」 「そりゃ警戒するわよ。でも面白い」  有季は、小関に興味が湧《わ》いてきた。 「何が面白いんだ?」 「あなたって、謎《なぞ》がいっぱいだから」 「そうか。君は、やっぱりぼくが思っていたとおりだった」 「私のこと知ってたの?」 「知ってたさ。だから襲《おそ》わせたんだ」  小関は、けろりとしている。 「じゃ、あれはヤラセ?」 「そうさ。あわやというときに現われて、悪党をばったばったとやっつける。古典的な手法だけれど、成功率は高い。ほとんど失敗したことはないんだ」 「それは気がつかなかったわ」  有季はやられたと思った。しかし不思議に腹は立たない。 「君は隙《すき》だらけだ。用心したほうがいいぜ」  小関にそう言われては一言もない。黙《だま》っていると、 「おこったのか?」  と顔をのぞきこんだ。 「ちょっと悔《くや》しい」 「隙はだれにだってあるさ。君なら、ぼくのパートナーになれるな」  小関は、突然《とつぜん》言った。 「パートナーって何?」 「それは、まだ言わない。とにかく今夜は、みんなをよく観察してみるといい」  電車が次の駅に着いたとき、小関は「ここだ」と言って電車を降りた。     2  駅前の繁華街《はんかがい》を抜《ぬ》けて少し行くと、急に人通りがなくなって、街灯が高い塀《へい》とそれにつづくビルを照している。  駅を降りて十分ほど歩いたとき、小関は、塀とビルとの間の狭《せま》い路地に入って行った。  そこは人の通る道というよりは二つの建物の隙間といったほうがいい。  少し歩くと行き止りになっていて、鉄のドアがあった。ドアには南京錠《ナンキンじよう》がついている。  小関は懐中《かいちゆう》電灯をつけると、南京錠をはずしてドアを開けた。南京錠はかっこうだけで、鍵はかかっていなかった。  中は真っ暗だったが、空の明りで中庭であることがわかった。  小関は正面の建物を指さして、 「このビルは倒産《とうさん》して、建設が途中《とちゆう》になってしまった。そこを利用しているのだ。もちろん無断で」  と言いながら建物に入り、階段を登る。  コンクリートは打ちっぱなしで、内装はしていない。  小関は懐中電灯で足もとを照した。  三階まで登ると、ぼんやりと明りが見えた。廊下《ろうか》はろうそくが両側に置かれ、それが奥《おく》までつづいている。  突《つ》き当りのドアから人の声が聞えてくる。 「あのドアの向こうがそうだ。ドアを開けるとロッカールームがあるから、そこでユニホームに着替《きが》えて、マスクをかぶるのだ。自分の持ち物はロッカーに入れる。そうすれば君はもう有季ではなくなる」  小関に言われて、突き当りのドアを開けると、両側にカーテンで仕切られてロッカールームが並んでいる。  その中からマスクをかぶり、ブルーのスエットスーツを着た人間が出て来るのとすれ違《ちが》った。  その人物は、有季には全然目もくれない。まるで関心がないみたいだ。  有季もロッカールームに入り、スエットスーツに着替えた。棚があって、マスクが並んでいる。その中から自分に合ったマスクをかぶると、着てきた衣服をロッカーに入れた。  まるで、病院の手術着を着たときみたいな感じで緊張《きんちよう》する。  この瞬間《しゆんかん》から、有季という固有名詞はなくなり、ただのマスクマンという普通《ふつう》名詞になってしまうと、小関は言った。  ロッカールームを出た有季は、廊下の奥にあるドアを開けた。  とたんにだれかが怒鳴《どな》っている。  何を言おうとしているのか、まわりの喧騒《けんそう》があまりに激《はげ》しいので聞き取れない。  よく聞いていると、会社の上司を罵倒《ばとう》しているらしい。 「あいつだけは許せない。必ず復讐《ふくしゆう》する」  と喚《わめ》いている。するとだれかが、 「復讐だって? 具体的に言えよ! 殺すのか?」  と怒鳴り返す。 「そうだ。殺してやる」 「どうやって殺すか言え! ナイフか毒薬か?」  あまりにすさまじいやりとりに、有季は耳をおおいたくなった。  すると、別のコーナーで、だれかがさめざめと泣いている。声で女だということがわかる。  そばに寄ってみると、セクハラを訴《うつた》えている。 「そいつの名前なんていうの?」 「宮園《みやぞの》っていうの」 「課長?」 「そう」 「家族はどうなの?」 「奥さんと小学校の子どもがいるわ。奥さんには頭が上らなくて、いつも家でやられてるんで、その腹いせに、会社に来ると女子社員をいびるの」 「そういう男は許せない!」  女性のだれかが叫《さけ》んだ。 「そんなやつ、クビにしちゃえ!」 「できるの?」 「簡単にできるよ。私にまかせな」  有季はそこを離《はな》れた。見るからに中学生らしい子がいた。  小柄《こがら》で、そのうえ痩《や》せている。こういう子は、学校ではいじめの標的にされる。 「君、中学生?」  有季は、そばに行って話しかけた。 「うん」  少年は、有季を上から下まで眺《なが》めている。こうしていれば、有季は中学生か高校生かわからないはずだ。 「私も中学二年」 「そうか」  急に少年の口調が明るくなった。 「ここへはよく来るの?」 「週に二回くらい。君は?」 「私は今夜がはじめて」 「ここへ来るとはまるぜ」 「あら、そう。どうして?」 「だって、ここならぼくがだれだかわかんないじゃんか」 「君、ここでみんなになんて言ってるの?」 「ぼく? コンピューターの天才だって言ってる。もうじきぼくの発明したソフトが完成すると、ぼくは大金持ちになるって」 「すごいんだね」 「うそだよ。でも、ここではどんなうそをついてもいいんだ」 「じゃ、何か言われても信じちゃだめなの?」 「こっちがうそついてんだから、相手がうそついてもおあいこさ」 「話してることは、全部うそなの?」 「そんなことはない。本当のことも言うよ。学校で言ったら、みんなに笑われることでも、ここでは聞いてくれるんだ。だから、学校で面白くないことがあった日は、ここに来て、言いたいことみんな言っちゃうんだ」 「うちの人、ここに来てること知ってる?」 「塾《じゆく》に行ってると思ってる」 「君、この間死んだ殿村君のこと知ってる?」 「知ってるよ。やつとはよく話した」 「悩《なや》んでたの?」 「やつもぼくと一緒《いつしよ》。学校ではいつもいじめられてた。ここに来て、みんなと話すことだけがやつの生甲斐《いきがい》だったんだ」  少年は、ちょっとしんみりした口調になった。 「よく来てたの?」 「週に二、三回は来てたみたい」 「かわいそう。だれか、なんとかしてあげたらよかったのに」 「ここでは、話すだけさ」 「殿村君は、ここで話してるだけでは、なんともならなかったのね?」 「本当は、マスクはここ以外ではつけちゃいけないことになってるんだ。だけど、どうしてもマスクつけたかったんだろう」 「だれが、外ではマスクつけちゃいけないって決めたの?」 「だれだか知らない、そういうことになってるんだ。だからだれも外ではマスクをかぶらない」 「でも今は違《ちが》うわ。だれも彼《かれ》もマスクをかぶっているわ」 「殿村のせいさ。あいつがマスクかぶって死んだりするから大騒《おおさわ》ぎになっちゃったんだ」 「あなたたちは、ここでこっそりと集まっていたのね?」 「そうだよ、ぼくたちはだれにも迷惑《めいわく》なんてかけてやしない」 「まだ、あなたたちのことは世間のだれも知らないけれど、知ったらたいへんなことになるわよ」 「どんなふうにたいへんなんだ?」 「あなたたちのことを秘密結社か何かみたいに思うかもしれない」 「そうなったらどうなる?」 「ぶっつぶしに来るわ」  有季は、少し脅《おど》かしてみた。 「それはまずいよ」  マスクをかぶっていても、少年が狼狽《ろうばい》しているのがわかる。 「なんとかしないと……」 「どうすればいい?」  逆に質問されてしまった。 「私は知らないよ」 「そうか……」  少年は考えこんでしまった。  調子はずれの歌声が聞える。 「あれ何?」 「へただろう?」 「ひどい音痴《おんち》ね?」 「あいつ、自分ではそう思ってないんだ。だからここで披露《ひろう》してるんだ。聞かされるほうはたまらないよ」 「へたくそって言えばいいのに」 「言ってるよ。だけどあいつやめないんだ。自分は歌の天才だと思いこんでるんだから」 「やめろ!」  と怒鳴る声が、周囲から男に浴びせかけられる。しかし、男はやめない。 「どんな人か素顔が見てみたいわね」 「けっこう社長だったりして」  ——そうか。  社長だってストレスがないとはいえない。こんなところで発散するなんてこともあり得るかもしれない。 「どう? 面白いムードだろう?」  声で小関だと思った。 「うん、ここは別の世界、異次元空間ね?」 「そうなんだ。だからここで束《つか》の間《ま》解放され、しかも金はかからないというところがいいだろう?」 「はまりそう。さっきパートナーになれって言ったのはどういうこと?」 「それは、ここを出てから」  小関は、小声で言うと行ってしまった。     3  有季は、ロッカールームで、ふだん着に着替《きが》えて外へ出た。  まるで夢《ゆめ》でも見ていたような気持ちだ。  ビルの間の細い路地を抜《ぬ》けて表通りに出ると、そこに小関が待っていた。 「君は、一時間いたんだ」  小関が言った。 「そう。あそこにいると時間の観念がまったくなくなる。まるで水中を浮遊《ふゆう》しているマリモか何かみたい。でもみんな楽しそう」 「人間なんて固有名詞をとっぱらってしまえばみんな同じだってことがわかったろう? これは経験してみなくては理解できないんだ」 「あなたって、いったいだれ? 少なくとも癒《いや》しに行くのではなさそうね?」 「ぼくは、あの集会のウォッチャーだ」 「ウォッチする目的は何?」 「さっきは自然発生的にはじまったと言ったけれど、そうではない。だれかがつくったんだ」 「だれかって、だれなの?」 「わからない。それらしい者は一度も姿を現わしたことがない。しかし、いることは間違《まちが》いない」 「まるで神さまみたいじゃない?」 「そうだ。現代の疲《つか》れた人たちを救う神さまみたいに見える。しかし、はたしてそうなのだろうか?」 「信じてないの?」 「ぼくは疑《うたが》い深い男なんだ。これには、どうも裏がありそうな気がする」 「裏って何?」 「ぼくは、その人物をDと名づけた」 「なぜDなの?」 「デストロイヤー、破壊者《はかいしや》のD。デビル、悪魔《あくま》のD。デス、死のD」 「つまり神さまとは見てないのね?」 「そうだよ。そいつには邪悪《じやあく》な目的がある」 「邪悪な目的? ただごとじゃないわね。どういうことをしようとしているの?」  有季は聞き返した。 「それはわからない。だから知ろうとしているのだ」 「小関君以外に、そのことに気づいてる人いないの?」 「いない」 「一人でやるなんて危険だわ」 「だから、君をパートナーに選んだんだ。一緒《いつしよ》にやってくれるね?」  小関の言葉には謎《なぞ》がある。だから有季は惹《ひ》かれる。  有季をパートナーに選んだ目的も、そのまま信じていいのかどうか?  もしかしたら罠《わな》かもしれない。それならなおさら冒険《ぼうけん》してみたくなる。 「いいわ」  少しばかり体が硬くなった。 「あの集会を見ればわかるだろう。あそこに集まった人たちには自我がない。だからもしDが命令をすれば、どんなことでもやってしまうだろう。死ねと言えば死ぬかもしれない」 「それは、恐《おそ》ろしいことだわ。信じられない」  小関の言っていることはオーバーだという気がする。 「どうも、みんなの動きは監視《かんし》されている気がするんだ。どこかにビデオカメラがあって、みんなの行動と会話は撮《うつ》されてるかもしれない」 「そんな……」 「証拠《しようこ》はないけれど、用心に越《こ》したことはないと思ったから、あそこで話をしなかったんだ」 「そうなの……」  有季は急に不安になってきた。 「君は、ぼくの言うことを信じていない。しかし、それは当然だろう」  小関は有季の心を見透《みすか》したように言った。 「小関君の言うような、そんな邪悪な人間っている?」 「Dは人間ではない。悪魔なのだ」 「悪魔って、本当にいるの?」 「いる」  小関の目は遠くを見つめている。何の疑いも感じられない。 「悪魔って万能なの?」 「そうだ」 「じゃあ、どんな姿にでもなれるの?」  有季は、本の挿絵《さしえ》で見た悪魔の姿を思い出した。  それは、耳が尖《とが》っていて、尻尾《しつぽ》があった。口は耳まで裂《さ》けている。 「なれる。人間にでも」 「人間になった悪魔って見分けられるの?」 「見分けられない」 「それじゃ、どうしようもないじゃないの?」 「そうではない。やっつけることはできる。悪魔だってミスはする。殿村の自殺がそうだ」 「あれがどうしてそうなの?」  有季は、どういうことだろうと思った。 「あの自殺によって、マスクが大流行してしまった」 「ねがってもないことじゃないの?」 「その逆だ。Dが意図しているのは、マスクがなければ生きられない人間を増やすことなんだ。ただ面白がってマスクをかぶられたんじゃ、逆効果になってしまう」  小関が、殿村の事件をそこまで深読みしていることに、有季は驚異をおぼえた。  有季は、そこまでは想像していなかった。 「それはそうね。こんなのは一時的な流行で、すぐ消えてしまうと思うわ」 「そうなると、マスクの魔力《まりよく》はなくなってしまう。それを恐《おそ》れていると思うんだ」 「でも、それはかえっていいことじゃない?」 「どうかな? それはなんともいえない」  小関は、少し考えてから言った。 「聞きたいことがあるんだけれど、隅田川《すみだがわ》の死体のこと。あれはDがやったの?」 「Dの秘密を知ったからとも考えられるけれど、そこまではわからない」  小関とは駅で別れた。そのとき、一週間に一度は連絡《れんらく》すると言った。 『フィレンツェ』に帰ると、貢の顔がぱっと輝《かがや》いた。 「心配してたぜ。このままどこかへつれて行かれちゃうんじゃないかって」 「そうね。簡単に出かけたのは、ちょっと迂闊《うかつ》だったわ」 「何かあったのか?」 「いろいろとあったわ」  有季は、小関の話と集会での出来事を、くわしく貢に説明した。 「悪魔《あくま》ってのは、お話としては面白いけど、現代にそんなものがいるとは考えられないな。有季がそんな話に興味を持つのはおかしい」  貢は明らかに不愉快《ふゆかい》だという顔をした。 「人間の形をしているから、外から見ただけではわからないのよ」  有季は、つい弁解してしまった。 「悪魔は置いといて、だれかがうしろで糸を引いているというのは考えられる。気をつけたほうがいいぜ」 「問題は目的よ。そいつは何を企《たくら》んでいるのか?」 「だけど、その話をした小関というやつは信用できねえ」  貢は、はっきりと言った。 「私だって、頭から信用してるわけじゃないわ。いまは小関君がいちばん情報を持ってると思うから接触《せつしよく》しているだけ。矢場さんに連絡してみるわ。マスク集会のこと、とても興味持ってたから」 「矢場さんなら、さっき電話があって、もうすぐここへ来る」  貢が言った。     4  それから十分ほどして矢場がやって来た。 「よく無事で帰って来たな、アッシーが心配してたぞ」  矢場は、有季の顔を見るなり言った。 「別に危険はありませんでした」 「そうか、何か面白いことはあったか?」 「ありました」  有季は、貢に説明したと同じことを矢場に話した。 「Dというのがひっかかるな。そいつがマスクの集会を仕切っているとすれば、目的は何か?」 「だれも仕切られているなんて警戒《けいかい》している人はいません。自主的にやっているんだと思いこんでいます」 「そこが怖《こわ》いんだ。現代というのは、自分たちは自由にやっていると思っているが、見えない力で、ある方向に動かされている。しかし、そのことにだれも気づいていない」  矢場の言うこと、わかるような気がした。 「そのDなんですが、姿を見せたことはないそうです」 「それがおかしいんだよ。Dなんていうけど、小関の創作じゃないのか?」  貢が言った。 「アッシーの意見も無視はできない。Dが本当にいるとして、Dが意図しているものが何かわからないが、マスクが大流行して、Dの計算が狂《くる》ったというのが面白い。しかし、Dはこのことで自分の計画を諦《あきら》めることはないだろう」 「Dは、自分が自由にコントロールできる人間の数を着実に増やそうと考えていたんじゃないかと思います」  有季は、実際にDはいると信じている。 「そこに集まったのは、子どもと大人《おとな》とどっちが多かった?」  矢場が聞いた。 「マスクをかけているからよくはわからないけれど、三割くらいは子どもだという気がしました」 「現代の子どもは、以前とはすっかり様変りしてしまった。人間関係をつくることがへたで、自分の中へ引きこもってしまう。人を傷つけることも、傷つけられることもいやなのだ。外で遊ぶことはしないで、一人きりで遊ぶ。限りなく内に向かっている。こういう子どもたちにとって、マスクは魔法《まほう》の帽子《ぼうし》なのだ」 「Dは、子どもたちに魔法の帽子をかぶせ、どこへつれて行こうとしているのでしょうか? ハーメルンの笛吹《ふえふ》き男みたいに」 「そうか。ハーメルンの笛吹き男か——。彼《かれ》が笛を吹けば、子どもたちはそのあとについて行ってしまうかもしれないな」  矢場は考えこんでしまった。  子どもたちはDの笛の音につられて、どこかへ行ってしまうのだろうか? 「どうすればいいんですか?」 「Dを見つけることだ。そして子どもたちの目を覚してやるのだ」 「けれど、今の子どもたちをどうやって元気にさせるんですか? そんな方法がありますか?」  貢が言った。  矢場は、しばらく黙《だま》りこんでいたが、 「今、子どもたちは目標が見つけられない。ただ当てもなく漂流《ひようりゆう》している。元気になれというほうがおかしい」 「それならマスクは子どもたちにとって必要なんです。何か替《かわ》りがなければ、取り上げることはできませんよ」  貢が言った。 「アッシーの言うことは正しい。たとえDをやっつけても、子どもたちに何かをあたえなければ、替りのDが現われるだろう」 「マスクをかぶるしか幸せになれないなんて、そんな子どもをかわいそうと思いませんか?」  有季が言った。 「君の言うとおりだ。こんな子どもにしてしまったのは大人の責任なんだ。しかし、大人たちはそうは思っていない。子どもたちがいなくなって、はじめてそのことに気づくのだ。あのハーメルンの市民みたいに」  矢場の言葉は、有季に重くのしかかった。 「とりあえずやることは……?」  有季が言うと貢が、 「今度は、おれが潜入《せんにゆう》する」  と言った。 「それはいいけれど監視《かんし》されていること忘れないでね。へたに嗅《か》ぎまわるとヤバイよ」 「わかってるって。おれはそんなどじはやらない」 「小関という少年だが……」  矢場が言った。 「味方なのか、それとも敵なのか。なにひとつわからんな」 「小関って、真之介みたい。あるところまではわかるんだけど、そこから先がわからない」 「真之介もけっこう怪《あや》しいやつだからな。用心だけはしておいたほうがいい。気は許すなよ」  矢場が言った。 「わかってます」  有季は、ためらうことなく答えた。 「小関の目的はなんだろう?」 「あの集会のウォッチャーだと言いました」 「ウォッチして、その次はどうするんだ? Dをやっつけるのか?」 「そうかもしれません」 「ということはDに恨《うら》みでもあるのかな?」 「そんなこと感じられなかったけれど、あるいはそうかもしれません」 「小関がDを敵にするとなれば、かなりの危険は覚悟《かくご》しなければならない」 「私にパートナーになってくれと言いました」 「そんなこと言ったのか?」  矢場は目を丸くした。 「私はOKしました」 「なぜ?」 「協力しなかったら、この事件の真相はわかりません。だからです」 「矢場さん、有季がこう言ったら、もう何を言ってもだめです。諦《あきら》めましょう」  貢は、有季のことならなんでもわかっている。 「そうか。それならやめろとは言わん。しかし独走はするなよ。なんでもおれたちに報告しろ」  矢場が言った。 「もちろん、そうします。ところで矢場さん、隅田川で水死体になった池島さんの捜査《そうさ》はどうなりました?」  有季が聞いた。 「まだ犯人の目星はついていない」 「池島さんが話していた百万円の恐喝《きようかつ》と三人組の放火のことについて、警察の反応はどうなんですか?」 「さあ、それについての発表はない」 「頼りないんですね。犯人をつかまえる気はあるんですか?」  有季は苛《いら》ついてきた。 「店に放火されたのは事実かもしれないが、テレクラの百万円というのは、うそかもしれない」 「百万円の恐喝はなかったんですか?」 「恐喝されたのは事実かもしれないが、テレクラではなくて別のことのような気がする。これは、どうもうそっぽい」 「私もそんな気がします」  この事件、見えそうで見えないので苛《いら》つく。     5  その夜、有季が寝《ね》ようとベッドに入ったときケータイが鳴った。 「小関だ。夜おそくすまない。どうしても君に話しておきたいことがあったので電話したんだ」 「何?」 「君の命にかかわることだ」 「脅《おど》かさないで。眠《ねむ》れなくなるじゃないの。どうしてそんなことが起きるの?」 「君がおれと接触《せつしよく》したからだ」 「接触すると、どうして命を狙《ねら》われるの?」 「おれはウォッチャーと言ったろう? やつらもおれのことをウォッチしているんだ。おれが君と二度もあったことに神経をとがらしている」 「なぜ?」 「おれは、やつらにとって危険な存在だからさ」  小関が危険だというほど、有季は危険だと感じない。  何かが変なのだ。 「でも、私は関係ないでしょう」 「君がマスクのことを調べていることは、連中はちゃんとつかんでいる」 「調べてはいけないの?」 「いけない。これはアンタッチャブルなんだ」 「それは、パートナーを解消するということ?」 「そうじゃない。相手をなめてはいけない。そのへんのチンピラとは違《ちが》う。消そうと思えば、君一人くらい簡単に消せるということを言いたかったんだ」  小関は、こんなに深刻な言い方をしたことがない。 「それじゃ池島さんもそうなの?」 「そうだということがわかった」 「消された理由は何?」 「わからない。今は、わからないほうが君のためだ」 「もってまわった言い方はよして。はっきり言いなさいよ」 「言わなくても、いやでもわかるときがくる」 「それを言うために電話をくれたの?」 「身のまわりに注意しろというためだ」 「ご親切に、ありがとう」 「電話を切るのは待って」  小関は、有季のしようとしたことを先まわりして言った。 「まだ何かあるの?」 「Dの目的はなんだと思う?」 「人の心をコントロールすることでしょう?」 「コントロールしてどうするんだ?」 「あのハーメルンの笛吹《ふえふ》き男みたいに、子どもたちをどこかにつれて行ってしまう」 「現代の笛吹き男なんて、面白い発想だな」  小関にほめられて、有季は少しいい気分になった。 「ある日、突然《とつぜん》子どもたちがいなくなったら、親たちは歎《なげ》き悲しむわ。中世のハーメルンの町の人たちのように」 「昔の話では、いなくなった何百人かの子どもたちの行方《ゆくえ》は、結局わからなかったんだろう?」 「そういうことになっているわね」 「この情報社会でそんなことが可能だと思うか?」 「だれの目にも触《ふ》れさせないでつれて行くことはできないでしょうね」 「できる方法がある」 「どんな方法?」  小関は、いったい何を言おうとしているのだろう? 「ばらばらにやるなら」 「それはどういうこと?」 「笛吹き男が笛を吹くと、町中の子どもが集まって来て、彼《かれ》のあとについて行き、山の彼方《かなた》に消えた。だから笛吹き男がつれて行ったと思ったのだ。しかし、一人ずつばらばらに消えたら、それを笛吹き男のせいにするだろうか?」 「そっか一度につれて行くのは難しいかもしれないけれど、一人ずつなら可能性はあるわね。でも、本当にやるかしら?」  小関の発想は面白いと思った。 「どうかな……」 「あそこに行かせないようにしたほうがいいわね」 「行くなと言っても行くさ。一度行ったら、もうやめられない」 「Dは、子どもたちをつれて行って、どうするつもりなの?」 「人質《ひとじち》さ」 「人質?」 「そうだ。子どもたちがいなくなったら、彼は要求するだろう?」 「お金?」 「さあ……」 「だれに?」 「わからない。しかしそれ以外は考えられない」 「どうすればわかるの?」 「Dがだれだか知ること、それがまず第一だ」 「その次は?」 「何が目的なのか、それを知れば、防げるかもしれない。君ならできるだろう?」 「そこまでわかっていたら、早く手を打てばいいじゃないの? どうして放置しておくの?」  有季は、小関がますますわからなくなってきた。 「いま話したことは、全部おれの想像だ。こんなこと警察に話して信じると思うか? 妄想《もうそう》と笑われるのがおちだ」 「証拠《しようこ》は何もないんだからそうよね。じゃ、何もしないで、その日のくるのを待ってるってわけ?」 「そうじゃない。それを防ぎたい、だから君をパートナーに選んだんだ」 「私には荷が重すぎるわ」 「君の実績は全部調べた。パートナーには君しかいない」 「ずいぶん買いかぶられたものね」  有季は、小関の意図がわからなくなってきた。 「君にどうしてもパートナーになってもらいたいために、ここまで話したんだ」 「考えておくわ」 「そんな余裕《よゆう》はない。すぐOKしてくれ、子どもがたくさん死ぬかもしれないんだ。それでも断わるのか?」 「脅迫《きようはく》ね」 「どうしてもOKしてもらいたいんだ」  いつも冷静な小関の口調が熱っぽくなった。 「OKするしかないみたいね」 「ありがとう。君に万一のことがないよう絶対守るから安心してくれ」 「ヤバイことは嫌《きら》いじゃないわ」 「それじゃ、これから連絡《れんらく》はケータイで取り合うことにしよう。盗聴《とうちよう》されてるかもしれないから」 「わかったわ。それじゃ」  有季はケータイを切った。  小関は、なぜ有季をパートナーにしたのか?  彼の説明では納得《なつとく》できない。  貢は、決して小関を受け入れようとしない。  彼に邪悪《じやあく》なものを感じるからだと言っている。  もしかしたら、貢の直感は当っているかもしれない。  考えていると眠《ねむ》れなくなった。     6 「ヤバイことになりそう」  有季は、駅で貢に会ったとたん言った。 「なんだよ?」  こういう言い方にはなれているので、貢は動じない。  有季は、昨夜の小関の電話の内容を貢に話した。 「そいつはハンパじゃないぜ」  貢の表情がこわばった。 「子どもたちの命がかかっていると言われたら、断われないじゃない?」 「それが気にいらねえんだよ」  貢はむすっとしている。 「どうして?」 「だってそうだろう。そう言えば断われないことを見越《みこ》して言ってる。そこがやつのずるいところだ」  貢の言うことももっともである。 「そこまで考える?」 「考えるね。おれは疑い深いんだ」 「アッシーは、先入観で小関君を見ている気がする」 「先入観じゃない。いつもは慎重《しんちよう》な有季が、今度のことばかりは行動が軽率《けいそつ》だ。それが気になるんだ。大体、小関って何者だ? 知ってるのか?」 「知らない」  有季は首をふった。そういわれてみると、小関について何も知らないことに気づいた。 「君に近づいて来たのだって怪《あや》しい。もしかしたら敵かもしれないじゃないか?」 「敵だったら、あそこまで洗いざらいしゃべらないわよ」 「有季を信用させるためなら言うさ」 「彼《かれ》は、私たちのことを調べて、これならパートナーになれると思ってコンタクトしたと言ったし」 「それだって怪しいものさ」  貢は突き放すように言った。 「疑えば、きりがないわ」 「おれは小関のことをよく思ってない。だから小関もおれのことを警戒《けいかい》しているはずだ、それでいいんだ」  有季は、貢のこういうところが好きだ。 「ありがとう」  有季は、貢の手をしっかり握《にぎ》った。  やっぱり、いちばん信頼《しんらい》できるのは貢だ。 「今度は、おれがあの集会に出てみるよ」  貢が言った。 「気をつけてよ、監視《かんし》されているみたいだから」 「それが事実としたら、かなりヤバイ連中だな」 「そうだって。だから気をつけろって小関君は言ってたわ」 「Dというやつの正体をあばいてやる」 「あのマスク集会に来ているかも。でもわからないでしょう」 「向こうがわからなきゃ、こっちもわからないだろう」 「気をつけてよ」 「大丈夫《だいじようぶ》だって。おれは強運の持ち主なんだから」  貢は、ぼんと腹をたたいた。  昼休みに、野口から有季のケータイに電話があった。 「もしもし野口、田中君が学校に来ないの?」  声が切迫《せつぱく》している。 「病気ですか?」 「ええ、そう思って家に電話したの。そうしたら、いつものように学校に出かけたって」 「それはおかしいですね」 「おかしいわ」  とっさに、笛吹き男のことを思い出した。  田中は、Dによってどこかにつれ去られたのかもしれない。 「夕方、『フィレンツェ』に行くわ」  野口は、それだけ言って電話は切れた。 「田中君がいなくなったって」  有季は、そばにいる貢に言った。 「いよいよ、はじまったのか……?」  貢の表情がこわばった。 「小関君に電話してみる」  有季は、小関のケータイに電話した。 「もしもし、一休庵《いつきゆうあん》です」  これが小関の暗号である。小関から有季に電話するときは、愛《あい》美容室と言うように取り決めてある。 「私、有季。いま野口先生から連絡《れんらく》があって、田中君が学校に来ないんだって。家はいつもどおり出たってママが言ったそうよ。どうしたらいい?」 「警察に話したら?」 「犯人からの要求があったらどうするの?」 「誘拐《ゆうかい》ではないという気がするな。あまり騒《さわ》がないほうがいいかも」 「そうね。そうするように言う」 「ほかにもいなくなった人間がいるかもしれないな」  小関は、呟《つぶや》くように言ってケータイを切った。  有季は、野口に電話した。 「いなくなったことは警察に話したほうがいいです。理由はわからないと言ってください。でも、まだ学校にやって来るかもしれないから、学校が終るまで待ってください」 「わかったわ。そうする」  有季は、ケータイを切った。 「ほかにもいるかもしれないって、小関君は言ってたわ」 「矢場さんにも電話しようぜ」  貢に言われて、有季は矢場のケータイに電話した。 「はい。矢場です」  矢場はくぐもった声で言った。 「今、食事中ですか?」 「そうだ。有季か?」 「緊急《きんきゆう》の用事」 「わかった。折り返し電話する」  矢場はいったん電話を切ったが、五分後電話してきた。 「用件はなんだ?」 「田中君が、いつもどおり家を出たのに、学校に来てないんです」 「どこかでさぼってんじゃないか? それともマスクマンの集会に行ったか……」 「違《ちが》います。そんなことじゃない。彼《かれ》は人質《ひとじち》にとられたんじゃないかと思うんです」 「人質? なんでそんなことを言うんだ?」  有季は、矢場に話してなかった、小関の話をした。 「そうか、そういうことがあったのか……」 「矢場さん、この話信じますか?」  有季は、矢場の反応を知りたかった。 「話としては面白い。問題は、その話をした小関だ。身辺調査をしてみるべきじゃないか? 探偵《たんてい》だろう?」  矢場に言われてみればそのとおりだ。身辺調査は、探偵のイロハだ。迂闊《うかつ》だったと思った 「早速やってみます」  そうは答えたものの、小関がどこに住んでいるかもわからない。いろいろと聞きただしたら、小関のことだから身辺調査か? と聞くはずである、どういう方法がいいだろう。有季には、いい案が思い浮かばない。 「彼はなぜ自分のことを話さないんだ?」  矢場が聞いた。 「話せない理由があると思うんです。でも、彼が子どもたちを助けようと真剣《しんけん》になってるのはわかるの。だからパートナーになって、一緒《いつしよ》にやることをOKしました。いいでしょう?」 「いいでしょう? とおれに言われても困るが、やってみる価値はあるな。ただし……」 「リスクはあるって言いたいんでしょう?」 「そのとおりだ。それは覚悟《かくご》のうえなんだろう?」 「ええ、覚悟してます」  有季に、迷いはない。 「しかし、これが子ども誘拐のとっかかりとしたら、たいへんなことだ」 「そうならなければいいんですけれど。もしかして、まただれかいなくなったら。そしてその子が例の集会に出かけたとしたら、集団誘拐の可能性は大きくなります」 「そうだな。気をつけてみる。ただし、誘拐事件はマスコミには伏《ふ》せているケースがあるから、そうなると実態はつかみにくい」 「防ぐ方法はありませんか?」 「マスクをかぶっている子は、いまどこにもいる。一般論《いつぱんろん》として誘拐に気をつけろといっても何の効果もない」 「では、彼らの思うままですか?」 「証拠《しようこ》もないのに、マスク集会に踏《ふ》みこむわけにもいかないしな。それに彼らは被害者《ひがいしや》なんだ」 「その中に、犯人がいるかもしれませんよ」 「仮にいたとして、どうやって犯人だと特定できるんだ」  矢場の言うことはもっともだ。 「それじゃ、放っとくしかありませんか?」 「チャンスは身代金《みのしろきん》要求のときだ。それは必ずある」 「ふつう身代金を取るために誘拐するなら、金持ちの子を一人|獲物《えもの》にすればいいでしょう。そのほうがトラブルが少なくてすむと思います。なぜ複数なんですか?」 「複数かどうかは、これからの問題だ。もし何人もの子どもをつれ去るとしたら、単なる誘拐事件ではない」  矢場がきびしい口調になった。 「考えられることは何ですか?」 「身代金ではない、別の目的がある」 「たとえば……?」 「政治的な要求があるかもしれない。子どもを何人も人質に取られていれば、犯人の要求を聞かざるを得ないだろう」 「そういうことをする犯人の見当はつきませんか?」 「まったくわからん。しかし、君はたいへんなことに足を突《つ》っこんだな。これは危険なんてもんじゃないぞ。ヤバくなったら手を引け」 「はい、そうします」  有季はケータイを切った。  明日大あらしがくると言われても、今が穏《おだ》やかな天気なら、明日のことは想像できない。  そんな気分だった。     7  次の日の朝、有季が学校に出かけようとしたとき、野口から電話がかかってきた。 「田中君、昨日とうとう家に帰らなかったわ。電話もなかったそう」  野口の声は、すっかり沈《しず》んでいる。 「警察には言いました?」 「ええ、あなたが言ったように、家を出たまま帰らないと言っておいたわ。事件らしいことは一言も言ってない」 「それでけっこうです」  有季が言った。 「田中君、無事に帰って来るかしら?」  野口の声は、半分泣きそうだ。 「それは帰って来ます。ご家族の方にも、パニックにならないよう、おっしゃってください」 「わかったわ。でも、私のほうがパニックになりそう」  野口は電話を切った。  それから、朝刊の社会面を開いてみたが、子どもが誘拐されたという記事はどこにもなかった。  しかし、これだけで、事件は起きなかったと安心することはできない。  その日、学校に小関からも、矢場からも電話はなかった。  野口からも、田中が戻《もど》って来たという電話はなかった。  学校が終ると、貢は家に帰らず例の集会に出かけた。  帰って来たのは午後七時ごろだった。貢は腹がぺこぺこだと言って、大盛《おおもり》ピラフを二人前食べると、やっと人心地《ひとごこち》ついたのかしゃべり出した。  店には、野口と矢場も来ていて、貢の報告を待っていた。  貢は、有季に言われたとおり、建築|途中《とちゆう》のビルに入って行った。  ビルの中は、窓が少ないせいか、外から入ると暗くて足もとも危ないくらいだ。  三階まで階段を登り、ロッカールームで服を着替《きが》え、マスクをつけて部屋《へや》に入った。  そこは二百|坪《つぼ》はあろうかと思われる大部屋で、部屋の明りはろうそくしかないので、中は薄暗《うすぐら》かった。  全員が同じマスクをかぶっているが、ろうそくの明りで見ると、なんでもないマスクが影の具合いで不気味な印象になる。  部屋の中は、みんなのしゃべり声が充満《じゆうまん》して、一種異様な雰囲気《ふんいき》をかもし出している。  ここでは、それぞれが勝手なことを言ってもいいし、それを徹底的《てつていてき》に罵倒《ばとう》してもいいことになっている。  ざっと見た印象では、子どもより大人《おとな》のほうが多い。  人混《ひとご》みをわけてぼんやり歩いていると、 「君、はじめてじゃない?」  と親しげに声をかけられた。見ると貢と同じくらいの背だが、体はもっと痩《や》せている。 「わかる?」 「わかるさ。はじめのときはぼくもそうだったけど、きょろきょろあたりを見まわして、だれにも声をかけられないんだ。君もそうだろう?」 「うん。そうなんだ」  貢は、いつもよりは暗い声で言った。 「君、学校が楽しくないんだろう?」 「楽しくない。だって、だれともしゃべれないんだ」  貢は、聞かれたらそう言うつもりで準備していた。 「ぼくもそうなんだ。ここだと、こんなにしゃべれるんだけど、学校に行くとだれともしゃべらない。みんなぼくをシカトするんだ」 「そんなふうには見えないけどな」 「それは、マスクかぶってるせいさ。君だって、マスクかぶってると、別な人間になった気がするだろう?」 「うん、なんだかみんな友だちみたいで、だれとでもしゃべりたくなる」 「そうなんだ。だからはまっちゃうんだ。ここに来る人はみんなそうだよ」  見まわすと、子どもらしいマスクの連中が生き生きと人の間を泳ぎまわり、親しげにしゃべり合っている。 「ここだと、だれでも友だちになれそうだけど、外に出るとどうなのかな?」  貢が聞いた。 「マスクをはずせば元の人間さ。だから、友だちになれるのは、ここにいる間だけさ」 「それって、ちょっと淋《さび》しくない?」 「それは淋しいけど、いつでも来れば、友だちはいるんだから、それでいいのさ」 「そういえばそうだね」  貢は、さからわないことにした。 「ここに来れば幸せになれるんだから、外ではいくらシカトされてもどうってことないんだ」 「そうか。じゃここって君にとっては天国なんだ」 「そうだよ。君だって、じきにそうなるさ。時間の問題だよ」 「ここには、中学生は何人くらいいるのかな?」  貢はまわりを見まわして言った。 「わかんない。でもそんなことどうでもいいんだ。ここでは中学生も大学生もないのさ。ぼくだって、大学生だといえば、大学生になれるんだから」 「そうか、そうか」  貢は何度もうなずいた。  だれにでも変身できるというのは楽しいことだ。すると、この少年も、本当に中学生かどうかはわからないということになる。  少年は、貢を残して行ってしまった。すると女性が近づいて来た。  見ただけでは、中学生か高校生か、それとも大学生かわからない。 「こんにちは」  と親しげに言うので、貢も「こんにちは」と言った。 「君、マスクかぶって楽しい?」  声の調子から中学生かなと思った。 「楽しい」 「君、高校生でしょう?」 「うん」 「学校でもてる?」 「もてたらこんなところに来ないよ。全然もてないから来たんだ」 「でも、ここではナンパできないよ。顔が一緒《いつしよ》なんだから」 「ナンパのやり方を勉強しようと思ってやって来たんだ」  貢は、思ってもみなかったほうに話題が進んでしまったことに、自分でも驚《おどろ》いた。 「そんなこと簡単よ。まず、相手のことをかわいいと思うこと。それからかわいいと口に出して言うの。言ってみな」 「かわいい」 「だめ。全然気が入ってないじゃん」 「だってそれは無理だ。そのマスクじゃ」 「そうか。私の素顔ってかわいいと思う?」 「思う」 「うそ。かわいかったらマスクかぶる必要ないでしょう。私、実はふた目と見られない顔してるの?」 「うそだ」  貢は、ついのせられてしまった。 「まあ、それはうそだけど。どうして、男は女を顔で判断しちゃうの?」 「さあ、どうしてかな?」 「君はどうなの?」 「ぼくは、顔よりは人柄《ひとがら》だな」 「君って、うそつきね。口がうま過ぎる」 「そんなこと言われたことない。マスクをかぶったからこんなにしゃべれるんだ。マスクとったら全然さ」 「実は私もそうなの。こんなになれるのはマスクしてるときだけ」 「ここに来てから、どれくらいになる?」 「一カ月かな」 「そんなに前からやってるの?」 「うん。そのころ私は自殺しようと思ったくらい落ちこんでね」 「ここにいると楽しい?」 「楽しいよ。一生マスクしたまま暮したいって気持ち」  それは、この女性の本音みたいに思えた。 「そういう人たちって、ほかにもいるんだろうね?」 「いるわよ。大抵《たいてい》はそうじゃない? じゃあね」  女性は貢との会話を中断して行ってしまった。  貢も人混《ひとご》みの中に入って行った。するとうしろから、 「デブ」  と声をかけられた。ふり向くと痩《や》せこけて、貢の肩《かた》くらいしかない少年が立っている。 「デブって言ったのはおまえか?」 「そうだよ。文句あるか?」  こいつ、チビにしては態度がでかい。 「文句はないけど、おまえチビって言われないか?」 「言われるよ。しょっちゅう」 「そういうときはどうする?」 「なぐりかかって、噛《か》みついてやる」 「だけど負けるだろう?」 「うん」 「悔《くや》しいか?」 「そりゃ悔しいさ」 「だからここへ来るのか?」 「うん。ここへ来れば楽しいかと思って。だけど、チビはマスクでは隠《かく》せないからだめさ」  少年の声が暗くなった。 「体のことで、くよくよすんな。でかくていいなら象がいちばんってことになるじゃんか」  貢が言うと、少年はすっかりご機嫌《きげん》になって、 「君好きだよ」  と飛び上った。 「はーい」  マスクの一人が手を上げて、 「殿村を殺した先公にリベンジしようぜ」  と怒鳴った。 「やろうぜ。先公は何人だ?」 「四人だ」 「どうする? 殿村がやられたみたいに窓から落すか?」 「学校で殺すのはヤバイ。自家用車のタイヤをパンクさせよう」 「それだけか?」  だれかがどなった。 「スキャンダルがあるだろう? それをばらせ。まず矢島《やじま》からやろう」 「あいつ、何やったんだ?」 「女子のパンティを撮《うつ》したビデオを持ってる」 「本当か?」 「ヤラセで撮《と》るんだ。そのビデオテープを矢島の家に送る。それからマスコミに投書だ。家を調べてテープが出てきたら、言い逃《のが》れはきかない。これで矢島はクビ。いっちょうあがりだ」 「あとの三人も考えようぜ」  四人の教師を処刑《しよけい》することで、すっかり盛り上った。  貢が別の塊《かたま》りに行くと、そこは大人《おとな》らしい連中が四、五人いた。 「花屋の火事の犯人をおれは知ってる」  中の一人が言った。 「だれだ?」  別の一人が聞いた。 「おれだよ」 「また、また」  みんな、どっと湧《わ》いた。 「なんで火をつけたんだ?」 「花が欲しかったのさ」 「つまんねえうそはやめろよ。だれも信じてやしねえ」 「おれはうそは言わん。その証拠《しようこ》に、現場にマスクを置いてきた」 「本当かね?」  男は全然信じていない。 「うそだ。こいつは大うそつきだ」  別の男が言った。 「おれは、うそは言わん」 「それじゃ、コンビニの主人を殺したのもあんたか?」 「おれは殺しはやらん」  とたんに、みんなが笑った。  だれも和気あいあいとして、言いたい放題だ。うそでも本当でもここでは関係ない特別の空間みたいだ。  貢は、この集会が気に入った。みんなが心を解放されるのはわかる気がすると言った。 「それって、ある種の宗教団体みたいね」  野口が言った。 「宗教といったら教祖がいる。これは人の心を惹《ひ》きつけるけれど、宗教ではないと思う。なぜならDは人を救おうという心情は持っていないとみた」  矢場が言った。 「そう、Dは、悩《なや》める人の救済ではなくて、それを利用してある目的を達成しようとしている。それでなければ、子どもたちが人質《ひとじち》にされるわけがないじゃない? Dはやっぱり悪党だと思う」 「有季の言うとおりだ。もし子どもたちを人質にして、取引きの材料にしようと考えているなら、Dはまさしくデビルだ」 「二人目のいけにえが出ない前に、なんとかDを捕《つか》まえましょう」 「そうしましょう。おねがいします」  野口が有季の手を握《にぎ》った。  4 計 画     1  有季は、田中の消息を知ろうと思って家に電話した。電話口に出たのは田中の母親であった。 「お世話になってます。あなたのことは野口先生からお聞きしています」  母親の言葉は丁重《ていちよう》である。 「その後、田中君から連絡《れんらく》はありましたか?」 「いいえ、全然ありません」  母親は、思ったほど落ちこんだ口調ではない。それが有季の気持ちを楽にした。 「犯人からは何か言ってきましたか?」 「それも、何も言ってきません」 「どういうつもりかしら?」  犯人の意図は、小関が言ったとおり身代金《みのしろきん》ではないかもしれない。  そうでなければ、すぐにでも身代金の要求があってしかるべきではないか? 「もしかして、靖の身に何かあったのではないですよね?」  母親が念を押した。  何かあったとは、殺されたという意味なのか? 「そんなことはないですよ」  有季は頭から否定したが、確信はまったくなかった。 「命だけ助かればいいんです。けれど、身代金と言われても、うちには出すお金はございません。どうしたらいいでしょう?」  母親の声が急にか細くなった。  どうしたらいいかと言われても、有季には答えようがない。 「とにかく、身代金の要求があったら警察に相談なさったらいいです」 「警察には、靖がいなくなったことを言いました。けれどあの子は不登校で問題になっていたので、警察は取り合ってくれません」 「まだ誘拐《ゆうかい》されたと決まってはいないので、気をつかい過ぎないでください」  有季は、自分でも何を言っているかわからないまま電話を切ると、 「ああ参った」  とそばにいる貢に電話の内容を伝えた。 「これは誘拐だと思うけど、何も要求してこないところが不気味だな、これじゃ事件にもならない」  貢は冷静である。 「矢場さんに電話したんでしょう? なんて言ってた?」 「家出少年はいくらでもいるから、それらをいちいち犯罪に結びつけるわけにはいかないって警察に言われたそうだ」 「それはそうね」  では、何かが起きるまで放っておくしかないのか?  その間も、Dの計画は着々と進んでいるかもしれないというのに。 「真之介からEメールが届いているぞ」  貢は、用紙を有季に見せた。 二人で難事件に取組んでいて楽しそうだな。羨《うらやま》しい。 小関という男がぼくに似ているって、それはないだろう。有季はぼくを見くびっている。ぼくみたいな天才は、そんじょそこらにはいないということを有季によく話しておいてくれ。 マスクマンのクラブ、これはだれが考えたか知らないが面白い。 Dはこの中にいると見た。アッシーもDを見たはずだ。 君は小関のことで少しヤキモチを焼いているふうに見える。有季は小関にいかれるようなタマじゃないから安心しろ。 この事件の犯人は、ハーメルンの笛吹《ふえふ》き男とは違《ちが》う。目的はもっと別のところにある。世間をあッといわせるつもりだろう。 何をしでかすか楽しみだ。 Dは、子どもたちは殺さないから安心しろ。 犯人は仮面クラブにいる。それは絶対だ。 有季によろしく 真之介 貢さま  メールを読み終った有季は、 「あいかわらず、うぬぼれが強いわね。でも、当っているところもあるから憎《にく》いわね」  と言った。 「それだけか?」 「ほかに何があるの? 小関君のこと?」 「そうだ」 「それはノーコメント」  貢が何か言いたそうに、口をぱくぱくしているのがおかしくて、思わず噴《ふ》き出してしまった。  真之介は、有季|宛《あて》のメールでは、マスクを小道具に使うようなやつは、常識では考えられないようなことを計画していると言った。  常識では考えられない計画。もしかしてそれは大量|虐殺《ぎやくさつ》か?  Dは既《すで》に小関の動きを察知しているはずだ。それなのに、なぜ小関を泳がしているのか?  それで、どういうメリットがあるのか?  小関の動きをチェックしていれば、小関に会った有季のことも知っているはずだ。  まさか殺しはしないと思うが、有季に対して、どういう行動に出るか興味がある。と同時に不安でもある。  電話が鳴った。ケータイではないので、小関ではない。そう思いながら受話器を取ると矢場からだった。 「ちょうど電話しようと思っていたところ。あれから子どもたちの様子はどう?」  有季は、気にかかっていたことを聞いた。 「別に動きはない。といって何もなかったとはいえない。水面下で動いているかもしれないからな」 「ロンドンにいる真之介にEメールを送って感想を聞いたのよ。そうしたら彼《かれ》はこう言うの。犯人は仮面クラブの中にいる。それしか考えられない。マスクを考えるなんてすごいやつだから、やることも常識では見当もつかないって」 「真之介の言うことはわかる。Dはきっととんでもない計画を立てているのだろう」 「それをどうやって発見するかですね」 「そうだ。アッシーが仮面クラブで聞いたことのうち、花屋に火をつけたのはおれだと言った者がいたよな?」 「ええ、でも、あれはうそっぱちでしょう?」 「あそこで話されることは、うそと本当が混っている。本当に見えてうそのこともあるかわりに、うそくさい話で本当のことを話していることもあるんじゃないか?」 「そうか。そうすると、池島殺しもあの中にいるのかしら?」  有季は、頭が混乱してきた。 「池島は、調べてみるとだれかを恐喝《きようかつ》していたらしいことがわかってきた」 「恐喝というと、お金の要求でもしていたのですか?」 「そうだ。というのは彼には多額の借金があるのだが、その債権者《さいけんしや》に、近いうちに大金が入るから、そのとき完済すると言っているのだ」 「金を渡《わた》すと言われて、のこのこ出かけて行って、殺されたということですか?」 「さあ、それはなんともいえない」  矢場の声が小さくなった。 「犯人は、仮面クラブに関係ある人物ですか?」 「あそこでもマスクの影《かげ》はちらついているが、何かわざとらしい。マスク関係と思わせようとしているみたいに見えるのが気に入らない。これは、少し裏読みし過ぎているかもしれないが」 「私には、どっちとも言えません」 「四人の教師にオトシマエをつけてやると言ったろう?」 「ええ、言ってましたね。自動車のタイヤをパンクさせてやるとか……」  有季は、貢の言ったことを思い出した。 「殿村の担任は細川《ほそかわ》というのだが、彼も、あのときマスクを剥《は》ごうとした。その細川のアパートに、血染めのマスクが送られてきた。しかも額には呪《のろい》という文字が書かれてあったそうだ」 「気味が悪い。ほかの先生は?」 「ほかの先生はまだだが、みんな、今度はおれの番じゃないかとびびっているそうだ」 「それはそうでしょう。命にかかわらないいたずらならいいですけれど……」  彼らが何を考えているのかわからないのだから、判断のしようもない。     2  今日は、マスクをかぶって来るのは何人だろう?  そのことを考えると、野口は教室に入るのが怖《こわ》かった。  クラスの連中は、学校に入るときは素顔である。教室で野口が入る寸前にかぶるのだ。  だから校長も教頭も、ほかの教師も知らない。  別のクラスでは、堂々と校内を闊歩《かつぽ》している者がいる。こういう連中が野口のクラスに入って来ても区別がつかない。  今日はテストである。マスクをかぶっていたら、入れ替《かわ》ってもわからない。  今日だけは、どうしても、マスクを取らせなければならない。そう決意して教室に入った。  心配していたとおり、約半分はマスクをかぶっている。中に女子も五、六人混っているようだ。 「先生」  マスクをかぶった生徒が立ち上った。これではだれだかわからない。 「何か用があるの?」 「田中のことです。今日も休みですか?」 「この中に田中君いたら手を上げて」  野口が言ったが、だれも手を上げない。 「もしかしたら、いるかもよ」  だれかが言った。 「いねえよ」  別のだれかが言った。 「病気ですか?」  女子の江川《えがわ》が聞いた。 「違《ちが》う。きっとまた不登校がはじまったんだ」  マスクが答えた。これも、だれだかわからない。 「田中は家にいねえんだから不登校じゃねえよ」  別のマスクが言った。 「本当ですか? 先生」  江川が言った。 「本当よ」  うそは言えない。そう言うしかない。 「どこに行ったんですか?」  江川はしつこい。 「田舎《いなか》に行ったんだって」 「うっそお!」  マスクが言った。 「どうしたんだ?」 「やつは殺されたんだ」 「いいかげんなことを言うのはやめなさい!」  野口は強い調子で言った。 「うそだと思ったら公園に行ってみな。おれ、朝、田中の死体を見たんだ。口から血を出してたぜ」 「キャーッ」  女子が奇声《きせい》をあげた。 「その死体、マスクかぶってたか?」 「かぶってた」 「じゃあ、どうして田中とわかったんだ?」  これで教室中は大笑いになった。  こんな雰囲気《ふんいき》では、テストなんてとてもやれない。 「今日はテストだから、みんなマスクを取りなさい。取らなかった人はテストを受けさせません」  野口がきびしい声で言ったとたん、マスクが立ち上った。 「マスクを取らないとテストを受けさせないっていう校則がどこにあるんだ? 見せてくれよ」 「そうだ。見せろ、見せろ!」  いっせいにブーイングが起こった。 「マスクかぶってたら、だれがだれだかわからないじゃないの?」 「テストなんて、みんながどのくらい理解したかわかればいいの。一人一人の成績なんてどうでもいいじゃん」  このマスクは女子だ。 「大体、生徒に点数つけるなんておかしい。なんでそんなことするんだよ?」 「学校にテストはつきものです。なかったら学校じゃありません」 「テストしなきゃ教えられねえのか? そんな学校なんかやめちゃえよ」  マスクをつけているので、みんな言いたい放題だ。 「テストしなけりゃ勉強しないでしょう?」 「テストしたって、しねえもんはしねえよ」  みんながどっと笑った。 「大体、テストとか内申書とか、生徒に順番つけるのはよくない。そう思わない? 先生」 「順番づけすると勉強する子はするでしょう」 「しねえやつはどうなんだ? 学校に来るなっていうのか?」 「来るなとは言わないわ。学校は勉強するところなのよ」 「したくなかったら?」 「するよう努力しなさい」 「努力したくなかったら?」 「困ったもんね」 「本当は、そんなやつは死んじゃえと言いたいんだろ?」  素顔だったら、ここまでは言わないはずだ。 「そんなことは言わないわよ」 「言ったら問題になるから言わねえんだ。先生は利口《りこう》だよ、あほな教師だと、こういうときはキレちゃうもんだ」 「とにかく、マスクは取りなさい。おねがい」  最後は哀願《あいがん》してみた。 「脅《おど》しの次は泣き。先生、そういう手は古いんだよ。カビが生えてるぜ」  野口は言葉を失った。 「無理にマスク取らせて、窓から飛び降りるやつがいたらどうする? 生徒を追いつめないほうがいいよ」 「わかったわ。そこまで言うなら、マスクをしたままテストをやりなさい」  野口は、膝《ひざ》から崩《くず》れてしまいそうな無力感を覚えた。  職員室に戻《もど》ると、一年二組の担任|黒沼《くろぬま》が、 「先生、うちにもマスクが現われました」  と悲痛な顔をした。 「何人?」 「今のところ一人です」 「一人くらいなら、どうってことないじゃないの」 「でも、私どうしていいかわかりません」  黒沼は去年大学を出て、担任になったばかりである。 「あまり、むきになってマスクをはずさせようとしないほうがいいわ」 「そうですか。私、何がなんでもマスクを引き剥《は》がしてやりたいと思うんですけれど、だめですか?」 「そんなことして、もし死んだりしたらどうするの? 責任取らされて、辞めなくてはならなくなるわよ」 「そうですか……」  黒沼は納得《なつとく》いかない顔をしている。野口だって、マスクには手を焼いているのだ。若いのだから、そういう気持ちになるのはもっともだと思う。 「なんだか、悪性のウイルスに感染したみたいな気分です」 「いつかは飽《あ》きて止《や》めるでしょう。それまで待つのね」  そんなこと、自分だってできないのに。     3  スーパー『マルカ』は、昭和三十年代初め静岡市で誕生した。  創業者は加藤大三《かとうだいぞう》で、当時は町の小さな雑貨屋であった。  加藤は、三十年代の終りに東京に進出し、現金仕入れの超安値《ちようやすね》で、見る間に店を大きくし、店舗《てんぽ》を増やしていった。  四十年代になるとスーパーの競争は激《はげ》しくなったが、その中にあって『マルカ』は着実に業績を伸《の》ばしていった。  スーパーの多くがそうだが、『マルカ』も加藤のワンマン経営である。  スーパーは、大量仕入れ、大量|販売《はんばい》で売り値を下げるために、どこもが拡大路線に走った。  店をより多く持ったところが、より大きい利益を得るという時代であった。  やがて消費者が成熟するにつれて、商品の選別が激しくなり、安く売ることにも限界が見えてきた。  そして大規模スーパーの冬の時代がやってきた。  加藤は、最初独自の仕入れルートを作ったが、これは倒産《とうさん》寸前の問屋やメーカーから仕入れるため、商品を恒常的《こうじようてき》に仕入れることが難しく、ゲリラ的な店ならともかく、大規模スーパーには向いていないことがわかった。  加藤は、スーパーの冬の時代を割合早くから予測していたので、そのときのために不動産部門を作り、そちらに活路を見出そうとした。  そのころ、不動産はうなぎ昇《のぼ》りに上昇《じようしよう》をつづけ、『マルカ』の資産価値も急上昇した。  バブル期に入ると、銀行も争って融資《ゆうし》したので、『マルカ』の不動産投資は風船のようにふくれあがった。  このことを危惧《きぐ》して、不動産から手を引かないと危険だと進言する社員もいたが、加藤はまったく聞く耳を持たなかった。  加藤が不動産に夢中《むちゆう》になっている間に、本業のスーパーの売り上げは下落しつつあったが、その損失は不動産の利益で埋《う》めればいいと、加藤はまったく意に介《かい》さなかった。  バブルがはじけ、不動産価格が暴落しはじめると、不動産に頼《たよ》っていた『マルカ』の経営も急降下しはじめた。  加藤は社長を息子《むすこ》の大器《たいき》に譲《ゆず》り、自らは会長となって大リストラを行った。  従業員の大量|解雇《かいこ》である。それまで、ワンマン経営者である加藤を信じていた社員は、パニックに陥《おちい》った。  しかし、このままでは倒産しかないと言われれば、泣く泣く辞めるしかない。こうして多くの社員が怨嗟《えんさ》の声をあげながら会社を去って行った。  それまで会社の花形として、肩《かた》で風を切って社内を闊歩《かつぽ》していた不動産部門は、第一に縮小され、わずかに残った連中もひと部屋《へや》に閉じこめられてしまった。  そこは、窓もない部屋で、仕事は何もあたえられず、朝出社して夕方帰るまで、そこから出ることも許されなかった。  ほかの社員たちは、その部屋を牢屋《ろうや》だといったが、まさしくそこは牢屋であった。  最初は十数人いた社員も、精神的に耐《た》えられなくなって会社を辞めていき、現在は五人になってしまった。  会社の経営がきびしいというのに、何もしないで遊んでいる五人に対する社内の風当りは強く、この五人とは、顔を合わせても、ものも言わなくなった。  会社のために、家族も犠牲《ぎせい》にして、遮二無二《しやにむに》働いてきた結果が屈辱的《くつじよくてき》な牢獄暮《ろうごくぐら》し。  いったい自分たちは何だったのだろう?  言いたいことは山ほどあるが、それを言えば自分が惨《みじ》めになるだけだから、口にするのは止《よ》そうと誓《ちか》い合った。  そのかわり、どんなにひどい仕打ちをされても、自分から辞表は出さない。  会社側から辞めろと言わないことはわかっていた。  それはこの五人が会社の犯《おか》してきた不正にかかわってきたからである。  それを公言されては、会社の損害は測りしれない。それを防ぐためには、五人を飼《か》い殺しにするしかない。  要するに会社のウイークポイントを握《にぎ》っていることが、切り札であることを、五人はよく承知していた。  そのことを、五人は会社にちらつかせるような愚《おろ》かな行動はしないが、以心伝心で会社側も心得ているから五人には手をつけない。  しかし、そのことを大三に進言したのは、専務の目黒《めぐろ》だけである。  目黒は、会長の加藤の片腕となり、会社をここまでやってきた。  今は、社長の大器を有能な経営者にすることに一生を賭《か》けているが、大器は目黒の意のままにはならない。  古風な番頭のような目黒に対し、常務の小倉《おぐら》は商社から引き抜《ぬ》いたやり手である。 『マルカ』が、曲りなりにもつぶれないでいるのは、小倉の手腕《しゆわん》に負うところ大である。  そのことは若手社員たちはみんな知っている。  ボンボンである大器に対して、『マルカ』を救えるのは小倉しかいない。  小倉の社長待望論は、次第に大きい勢力になりつつある。  目黒は、そのことを何よりも心配していた。     4  五人は、自分たちの名前を木火土金水《もくかどごんすい》、いわゆる五行《ごぎよう》からとって、木村《きむら》、火屋《ひや》、土井《どい》、金本《かなもと》、水谷《みずたに》とした。  暗号で呼ぶことにした理由は、五人が計画していることが洩《も》れた場合、粛正《しゆくせい》されるおそれがあるからである。  その計画とは五人の再生である。  会社のために数十年|頑張《がんば》ってきたのに、会社の経営がうまくいかなくなったからといって、まるでゴミのように捨ててしまう。  それでしかたないと思って黙《だま》って辞めていく。そんなことは絶対やめようと五人で話し合った。  五人が考えたことは、自分たちのクビを切った会社への復讐《ふくしゆう》ではなく、あわよくば会社の経営を手中におさめてしまおうというものであった。  この計画をみんなに話したのは木村である。  木村は、窓のない牢屋に入れられると決まったとき、そのことを妻に話し、子どもと三人で死のうと話した。  それを思いとどまったのは彼《かれ》の息子の一言である。 「パパの弱虫。ぼくは死ぬのはいやだ。どうして会社を自分のものにしてしまわないんだ? そうすりゃなんてことないじゃんか」  その瞬間《しゆんかん》、木村は頭を一撃《いちげき》されたようなショックをおぼえた。  ——そうだ。  五人で会社を乗っ取ってしまえばいいのだ。  そこで木村は、そのことを四人に話した。  四人とも、最初は無謀《むぼう》過ぎると言って木村の話にのってこなかったが、このまま野垂れ死にするよりは、やるだけやってみようということになった。  ボスは木村に決まった。  木村の言うとおりに四人は従うと誓《ちか》った。  木村は次のような計画を四人に提案した。  F区に、『マルカ』が建設しようとしたKビルがある。  それは六階建てで、完成したら買い手は決まっていた。それを手がけたのは木村を部長とする不動産グループだが、建設が九割まで進んだときに、バブルが崩壊《ほうかい》して買い手の会社はつぶれてしまった。  建設はそのまま中止になり、木村たち五人組が販売《はんばい》に当っているが、買い手はいっこうにつかなく現在に及《およ》んでいた。 「あのKビルをおれたちの根城《ねじろ》にしようと思う」  木村が言った。 「あれをどうするんですか?」  土井が聞いた。 「あのビルはおれたちが管理しているから、おれたち以外は入ることができない。ということは、おれたちなら自由に使えるということだ」 「なるほど、そう言われればそうだ」  水谷がうなずいた。 「しかし、電気も水道もないですよ」  土井が言った。 「水道は、近くの水道管から引いてこれる。電気は自家発電すればいい」 「それはいいとして、あのビルで何をやるんですか? まさか、事務所を開くわけにもいかないでしょう?」  金本が言った。 「事務所なんかはやらん。あのビルの三階を秘密の集会場にするのだ」 「バクチ場ですか?」 「麻薬《まやく》とかバクチとか、法律に触《ふ》れるものはやらん」 「わかりませんなあ」  土井は、くせになっている貧乏《びんぼう》ゆすりをはじめた。 「三階の大部屋《おおべや》でパーティーを行う。ただし、ここに入るには条件がいる」  四人の視線が木村に集まった。 「条件というのは、全員マスクをかぶって来ることだ」 「マスク? あの風邪《かぜ》ひきのときに使うあれですか?」  土井が聞いた。 「違《ちが》う。プロレスの仮面レスラーがかぶっているマスクだ」 「それはまた、どういうことですか?」  四人とも唖然《あぜん》としている。 「人間というやつは、おれたちもそうだが、言いたいことをいっぱい持っている」 「そのとおり」  水谷がうなずいた。 「しかし、それをぶちまけることはできない。なんとか出せるのは酒でも飲んだときくらいだ。みんな、言いたいことは我慢《がまん》して生きているんだ」 「そうです。人間って悲しいですなあ」 「そういうストレスが溜《たま》って、制御《せいぎよ》がきかなくなると、キレて大爆発《だいばくはつ》する」  土井が、そのとおりだという顔で、何度もうなずいた。 「そういう連中ばかりを集めるんですか?」  火屋が聞いた。 「ストレスのある連中のほうがふつうなんだ。その連中は、マスクをかぶることによって、自分はだれだかわからなくなるから、言いたい放題言えるようになる」 「それはそうだ。言ったことが自分に返ってこなければなんでも言える」 「なんでも言えたら、人間は気持ちがすっきりするものだ」  木村は、四人の顔を見た。 「それ、子どもにもいいかもしれん」  水谷が真っ先にさんせいした。 「キレる子どもたちは、言いたいことが言えないからな」 「いい、それ絶対いい」  土井が言った。 「そのクラブ、入会金と会費を取れば儲《もう》かる」  金本が言った。 「料金は無料だ。部屋の入口にロッカールームを作って、そこでマスクをかぶる。言いたいだけしゃべって終ったら、そこへマスクを置いて帰る」 「ただですか?」 「そうだ」 「入会資格はあるんですか?」 「ここは、原則として自然発生的にできたものにする。もちろんおれたちの名前は伏《ふ》せる。入会資格はない。老若男女、来たい者はだれでも来れるようにするのだ」  木村が言った。 「考えはたいへん面白いけれど、これが私たちの計画にどうプラスするんですか?」  土井が聞いた。 「おれたちは、これから巨大《きよだい》な敵と闘《たたか》わなければならない。それには相当のパワーがいる。おれたち五人くらいではとてもだめだ」 「それを私は心配してたんです」  水谷が言った。 「このクラブに集まって来る連中にもパワーがある。ただし負のパワーだ」 「負のパワーって、どういうパワーですか?」  金本が聞いた。 「建設するとか作り上げるのは正のパワーだ。逆に破壊《はかい》するのは負のパワーだ。だれだって、むしゃくしゃしたら、何かに当りたくなる。これが負のパワーだ。このパワーを極限にまで増大し、それを敵にぶつけるんだ」 「要するに、五人だけでは心もとないので、負のエネルギーと合体してやろうってわけですね?」  土井が言うと、 「少しわかってきた。具体的にはどうするんです?」  と水谷が聞いた。 「みんなもマスクをかぶって集会に潜入《せんにゆう》し、目星をつけた人物を煽動《せんどう》するんだ。そして彼のエネルギーを解放してやるのだ」 「ということは、われわれの仕事を手伝わせるということですか?」 「手伝えとは言わない。彼らのエネルギーを解放してやるのだ。そのためなら彼らはなんでもやるだろう」 「すごいことを考えましたね」 「これは、おれのアイディアというより、息子《むすこ》のアイディアなんだ」  木村は話しているうちに、次第に確信となった。  仮面クラブだったが、やってみると口コミでいろいろな人間が集まって来た。  木村たちが期待していたサラリーマンのほかに老人、女性、子どももやって来た。  そのだれもが、いざというときに役に立ちそうに思えた。     5  加藤大三のもとに一通の手紙が届いた。その内容は次のようなものである。 通告 加藤大三、加藤大器親子は、これまで蓄《たくわ》えた全財産を会社に提供し、会長、社長の地位から退いて、会社を危機に陥《おとしい》れ、多くの従業員の生活を破壊した責任を取れ。 その意志のあることを一週間後マスコミに発表すること。 もし、この通告を無視した場合は、物理的手段に訴《うつた》える。 『マルカ』を憂《うれ》う会  通告状は、秘書の手から、加藤大器社長に渡《わた》され、大器は会長室にいる大三にその通告状を見せた。  大三は、それを一瞥《いちべつ》するなり放り出した。 「無視してもいいんですか?」  大器は、大三の顔色をうかがった。  社長にはなったものの、すべての権限は会長の大三にある。社長はただの対外的な飾《かざ》りものに過ぎないことを、大器も心得ている。  大器は、もともとオタクで人に会うことを好まない。  大三は、そんな大器を見限っていたが、会社の緊急《きんきゆう》事態でやむを得ず社長にしたのだ。  大器は、できることなら、こんな面倒《めんどう》くさい仕事から逃《に》げ出したかった。 「かまわん」 「物理的手段に訴えるとありますが……?」 「どうせ、食料品に毒でも入れるというのだろう」 「それでなければ爆発物《ばくはつぶつ》……」 「警備だけは強化しろ。この際だ、面倒なことを起こして、マイナスのイメージをふくらませたくない」 「敵はわれわれのウィークポイントを見透しているのです」  大器は憂《ゆう》うつになった。 「おい」  突然《とつぜん》大三が大きい声を出した。 「何ですか?」 「これはもしかすると、『エイトツー』の謀略《ぼうりやく》かもしれんぞ」 『エイトツー』は、業界でトップクラスのスーパーで、数年前から『マルカ』の吸収を狙《ねら》っている。  数年前までは、それほどでもなかったが、最近は露骨《ろこつ》に攻勢《こうせい》をかけてくるようになった。  業績が悪いので株価は低迷しているのに、突然、『エイトツー』に吸収か? と株価がはね上ったりする。  大三にも、持ち株を手放すよう何度か言ってきた。  そのたびに大三は無視してきたが、この脅迫状《きようはくじよう》まがいの通告状は、明らかに『エイトツー』の手口に見える。 「相手は大手です。そんな汚《きたな》いまねをするでしょうか?」  大器には信じられない。 「『エイトツー』の会長|八木《やぎ》は叩《たた》き上げだ。わしと変らん。いくら金持ちになっても、根性《こんじよう》は昔のままだ。汚いことをやって大きくなってきたのだ」 「けれど、うちを吸収して『エイトツー』にメリットはあるのでしょうか?」 「メリットはあります。業界一の規模になることです。八木は一番が好きなのです」  目黒が言った。  創業者というものはそういうものかもしれないと大器は思った。 「向こうがそう出るなら、こっちもやるんだ」  大三は、顔を紅潮させた。 「やれと言われますが、何をやるんですか?」  大器は、大三が興奮しないよう、なるべく穏《おだ》やかな口調で言った。  大三は、近頃《ちかごろ》血圧が高くて、主治医から注意しろと言われている。 「向こうがやったことと同じことをするんだ」 「けれど、たとえ何をやられても、向こうがやったという証拠《しようこ》がなくてはまずいでしょう?」 「証拠なんかあるわけない。こっちがやったって、証拠はない」  大三は無茶なことを言い出す。明らかに老化現象だと思った。 「そんなことをしたら『エイトツー』と全面戦争になります。まともに戦ったら、勝つ見込《みこ》みはありません」 「臆病者《おくびようもの》! 人生は戦いだ。こちらが引いたら向こうは押《お》して来る。引いたら負けだ。たとえ相手が強くてもだ。わしは、そうやってここまでやって来た」  大三にそう言われると、大器は一言もない。自分には戦った経験はまったくないのだから。 「わかりました。なんとかやってみます」  大器は逃げるようにして会長室を出た。  社長室に入ると、秘書室長の毛利《もうり》を呼んだ。  毛利は大器の三年|後輩《こうはい》で、大学時代から気心の知れた男である。  毛利に、通告状と、会長の大三の反応を話した。 「どうしたらいい?」  黙《だま》って聞いている毛利に言った。 「その通告状は、私財を社のために出せと言っています。これは『エイトツー』のやり方とは思えませんが?」 「『エイトツー』でなければだれだ?」 「リストラで解雇《かいこ》された者、つまり会社に恨《うら》みを持っている者のやりそうなことに思われます」 「それは、おれも最初に思った。しかし、解雇されてしまえば、うちとは関係ない。うまくいこうがいくまいが関係ないじゃないか?」 「社長、鋭《するど》いところを突《つ》かれました。おっしゃるとおりです」  毛利にほめられて、大器はいい気分になった。 「君は小倉ではないかと言いたいのか?」 「常務は、そういう軽率《けいそつ》な行動には出ません。ただ若手社員の間に小倉待望論があります。この連中の暴走ということも考えられます」 「それは許せん。芽は早く刈《か》り取ったほうがいい」 「おっしゃる通りです。私も一刻も早いほうがいいと思います」 「いい方法があるか?」  大器は、毛利の顔を見た。 「それらしい人物は、地方の子会社に飛ばしてしまえばいいと思います。どこもアップアップです。放っておいてもつぶれますが、つぶれたら責任を取らせることができます」  毛利はやさ男で、俳優にしてもいい男だが、顔に似合わず、平然と冷酷《れいこく》なことを言う。 「それは妙案《みようあん》だな。早速《さつそく》やろう。ところで、この通告状はどう処理したらいい?」 「まさか、私財を投げ出すという記者会見はできません。すると敵は必ず物理的行動に出るでしょう。それが何かということです」 「毒か爆薬《ばくやく》か……?」  大器は、どちらもかんべんしてほしいと思った。 「それに対抗《たいこう》するには、警備の強化しかないと思います。そうすれば防げないことはありませんが、盲点《もうてん》もあります。しかし、それは徹底的《てつていてき》にチェックしましょう」 「それ以外に何かないか?」 「会社と社長を襲撃《しゆうげき》する。これがいちばん問題です。それを防ぐためには、あまり外出をなさらないこと。パーティーなども遠慮《えんりよ》されたほうがいいでしょう」 「海外視察があるが……」 「それは、中止されたほうがいいでしょう」 「あの旅行は止《や》めるわけにはいかん」  大器は、海外旅行で羽を伸《の》ばしたかった。 「しかし、命と交換《こうかん》するほど大切とは思えません」 「そんなに神経質になる必要があるかな? 単なるいたずらかもしれんだろう?」  大器は、どうしても本気にはなれなかった。 「もちろん、その確率もあります。しかし、たとえそれが、いたずらであっても、やることはやっておく必要があります」 「そうか。では、この通告状の処理は君にまかせよう」  毛利が社長室を出て行ったとたん、大器はソファに体を投げ出した。 「何かお持ちしましょうか?」  秘書の横地芙沙子《よこじふさこ》が言った。 「何もいらん」 「たいへんですね」  芙沙子に慰《なぐさ》められると、気分がほっとする。 「社長なんて辞めたいよ」  自然に本音が出た。 「もったいないことをおっしゃいます」 「そうかな。こんなものだれにでもくれてやりたいよ」  小倉が欲しければ、やるよと言いたい気持ちだった。 「社長、マスクをかぶるパーティーをご存知ですか」  芙沙子が突然《とつぜん》言った。 「マスク? それは仮面|舞踏会《ぶとうかい》のことか?」  大器は、思わず芙沙子の顔を見た。  秘書にしただけあって、タレントにしてもいいような美人である。 「そんな大げさなものではありません。今みんなストレスが多いので、マスクをかぶって言いたい放題を言う集まりです。私も一度行ってみましたが、帰るときは気分がすっきりします」 「君にストレスがあるなんて思えないが?」 「とんでもございません。ストレスだらけです」 「そうか、おれも一度そこへ行ってみたいな。つれて行ってくれないか?」  大器は、そこに行って思いきりうっぷんを吐《は》き出したくなった。 「そこでは、社長も平社員もありません。だれがだれだかわかりませんから。他の人からひどいこと言われても平気ですか?」 「かまわない。いつもまわりの連中からとってつけたようなお世辞ばかり言われるのには飽《あ》きた」 「そうですか、それならおつれします」  大器は、なんだか大冒険《だいぼうけん》に出かけるような気分になった。     6 「もしもし、こちら一休庵《いつきゆうあん》、愛《あい》美容室ですか?」  有季は、最初何かの間違《まちが》い電話かと思ったが、すぐに小関からだと気づいた。 「今夜の七時半、例の集まりに来てくれないか?」 「いいわ」 「面白いやつがやって来る。マスクの紐《ひも》の先に赤い印がついている」 「中学生?」 「そうじゃない。社長だよ。うまく話を合わせて聞き出すんだ」 「わかった。やってみる」 「今夜、面白いことがある」  木村は、四人を集めて言った。 「何?」  四人の目が木村に集中した。 「Kビルに大器がやって来る」 「Kビルに? 何しに来るんだ?」  火屋がけげんそうに木村を見た。 「マスクをかぶってみたくなったらしい」 「あいつもストレスが多いんだな」  水谷が笑った。 「あの通告状が効いたんだ。それにおっかない会長とお目付け役はいるし。ストレスは溜《たま》るよ」 「横地がよく教えてくれたな?」  土井が聞いた。 「社長は知らないが、横地は小倉の愛人だ。彼女《かのじよ》はおれを常務派と思いこんでいる。だからだ」 「そういうことか……。彼女も今夜来るのか?」 「もちろんだ。大器はKビルに行っても、そこが自分の社のビルとは気づかないだろう」 「おっとりしてるな。ところで、やつらの反応はどうなんだ?」  金本が言った。 「警備を強化するくらいしか思いつかないだろう」 「私財を投げ出す気はないか?」 「あるわけないだろう。ただ大器は、会社の経営やこうしたトラブルにはいやけがさしているようだ。もう少し揺《ゆさぶ》りをかければ、あいつは崩《くず》せる」 「よし、やろう。今夜は全員が行くんだろう?」 「行く」  木村がうなずいた。 「社長、足もとに気をつけてください」  芙沙子は、小さい懐中《かいちゆう》電灯で足もとを照している。 「こんな細い路地の先にビルがあるのか?」 「ありますから黙《だま》ってついて来てください。これから会場に入るまでは無言です」  芙沙子に言われて、大器は素直にうなずいた。  ロッカールームでマスクをかぶり、スエットスーツに着替《きが》えると、 「もう、ここでは社長でも何でもありません。あなたはだれにでも言いたいことを言っていいのです」  マスク姿の芙沙子が言った。これでは、会場で芙沙子と出会っても、芙沙子とは気づかない。  ドアをあけて広間に入った。中には二、三十人の人がいる。  ずいぶんいるな、と芙沙子に言おうとしたが、もう芙沙子の姿は見当らない。  なんとなく心細くなって、何かさかんに喚《わめ》いている人の近くまで行った。  リストラされた男が、社長を殺してやると喚いているのだ。  あまりいい気持ちがしないので、そこから離《はな》れようとすると、だれかに肩《かた》をたたかれた。 「あなた、はじめてですね?」  男は親しげに話しかけてくる。こんな言い方をされたことはないので、とたんに心のドアが開いた。 「ええ、はじめてです」 「ぼくは五度目。ここは病みつきになりますよ」 「そうですか」  大器は、あいまいに答えておいた。 「あなたも、面白くないことがあるから来たんでしょう?」 「ええ、まあ」 「ここへ来たら、腹の中にあるものを洗いざらいぶちまけるのです。どこのだれだか、だれも知りゃしないのだから、かまうことはない。そうするとすっきりしますよ」  男に言われて、大器は本当にそんな気がしてきた。  男が行ってしまうと、女の子がそばにやって来た。 「こんばんは」  一見したところ、中学生か高校生みたいだ。 「こんばんは」  こんな子から、親しげに声をかけられたことがないので、大器はどぎまぎした。 「君は高校生?」 「高一」 「どうしてここに来てるんだ?」 「私、自殺しようと思って薬飲んだの。でも生き返っちゃった。そうしたらいいところ紹介《しようかい》してあげるって言われてここに来たの」 「ここに来てどう?」 「みんな楽しいから、もう死にたくなくなっちゃった」 「それはいいね」 「あなたは悩《なや》みがないの?」 「そりゃ、いっぱいあるよ」 「私が当ててみようか?」 「うん、当ててごらん」  こういう子と、こんな他愛ない話ができるのはマスクのせいか。少しずつ体にたまったあかが落ちていく気がする。 「不倫《ふりん》でしょう?」  いきなり言われて、大器は笑い出してしまった。 「笑ってごまかしちゃだめよ」 「不倫もあるけれど、それは大したことない。もっと大きい悩みがあるんだ」 「へえ、不倫って悩みじゃないの? おじさんって相当のワルね?」 「ワルさ。実はこれまでに少女ばかり五人もレイプしたんだ」  声をひそめて言うと、女の子は派手に、 「キャーッ」と声を上げた。 「レイプしてから殺したの?」 「殺したさ。みんな土に埋《う》めた」 「それ、どこ? 教えて」 「それは秘密だ」 「私にだけ教えて」 「よし、では今度、満月の夜に教えよう」  こんな会話をしていると、会社のことなんか全部忘れてしまう。  大器はすっかり楽しくなった。 「ほかにはどういう悩み?」  少女が聞いた。 「おれは何に見える?」 「社長さんでしょう?」  いきなり言われて、大器はぎくりとした。 「わかるのか?」 「そりゃわかるわよ」 「どうしてだ?」 「どうって言えないけど私には見えるの」 「驚《おどろ》いたな。実はぼくは社長なんだ」 「社長さんがどうしてここへ来たの?」 「社長ってのは、いろいろと悩みがあるものなんだ」 「でも、お金持ちでしょう?」 「お金なんかあったって、なんにもならん」 「そうかなあ」  少女は首を傾《かし》げた。 「君はお金がほしいか?」 「別に……」  ほしいと言うと思ったが、意外な答えが返ってきた。 「ほかにはどんな悩みがあるの?」 「あり過ぎて、言えないくらいだ」 「背中に霊《れい》が見えるよ」  突然《とつぜん》少女が言った。 「霊? そんなものいるわけないだろう?」 「だって見えるんだもの」 「どんな霊が見える?」 「おじいさんが血を流している。かわいそう」 「死んでるのか? 生きてるのか?」  大器は、でたらめだと思いながら、つい聞いてしまった。 「死んでるわ」 「君は霊能者なのか?」 「そんなんじゃないけど、今は見えたの。おじいちゃんは、おじさんのお父さん?」 「わからん。ぼくの将来を見てくれないか?」  あの通告状に書いてあった、物理的……は父親の大三を殺すことだったのだ。 「それは無理よ」 「どうしてだ?」 「だって、マスクしてるんだもの」 「そうか、そうだったな」 「じゃあね」  少女は行ってしまった。すると入れ違《ちが》いに男がやって来た。 「今の話聞いちゃいましたよ。霊がついてるんだって?」 「ええ。でも信じてませんけどね」 「それはそうだ。霊なんて関係ないですよ、元気出しなさい」  男は、大器の背中をぽんとたたいた。とたんに、 「あッ」  と声を上げた。 「どうしたんですか?」 「あなたの背中に血がついている」  男は掌《てのひら》を見せた。そこには赤い血がべっとりついている。 「けがしたんですか?」 「とんでもない。あなたの背中をたたいたらこうなったんです。痛くもかゆくもありませんよ」  男は、大器の背中を見た。 「血がついている。どうしたんですか?」 「知りませんよ、ぼくは痛くもなんともない」 「これ放っといていいんですか?」  男は、肩《かた》をすくめて行ってしまった。 「背中どうしたんですか?」  別の男がやって来て言った。 「何もしません」 「血がついてますよ。字みたいに見えます」 「どんな字ですか?」 「カルマと読めます。これは業《ごう》という意味です」  と言った。 「カルマは逆に読めばマルカ」  大器は、足がふるえ出した。  もうここには一分もいられない。  部屋を飛び出した。  ロッカールームに入って、スエットスーツを脱《ぬ》いだ。こわごわ背中を見る。  しかし、そこには血の痕《あと》も何もなかった。  すると、あれは何だったのだろう?  大器は、何がなんだかわからなくなった。     7 「有季」  うしろから声をかけられた。ふり向くと小関だった。 「小関君も、あそこにいたの?」 「いたさ」 「全然気づかなかった」 「それがマスクのいいところさ。あの社長どうだった?」 「面白かったよ。からかったら、すっかりのってきた。あれで社長なの?」  有季は聞き返した。 「社長さ。スーパーマーケット『マルカ』の社長だ」 「えッ、あんな大きな会社の社長がなんであんなところに来たの?」 「ストレスがあるのさ」 「老人の霊がついてるって言ったら、はじめはのってこなかったけれど、あとで男の人がやって来て、背中に血がついてるとかなんとか言うと、びっくりして帰っちゃったわ」 「あの男たちは、『マルカ』をぶっつぶそうとしている連中さ」 「へえ、そんな人たちがいるの?」 「五人組だ。彼《かれ》らは会社に通告状を出したんだ。会長と社長の私財を会社に提供しなければ、物理的手段に訴《うつた》えるって」 「物理的手段って何?」 「さあ、何かな? 毒かそれとも爆弾《ばくだん》か……」  小関は、それを楽しんでいるような口ぶりだ。 「小関君、どうしてそんなにくわしいの?」  有季は、小関に対する疑問が急にふくれ上ってきた。 「ウォッチャーだからさ」 「違《ちが》う。君はウォッチャーなんかじゃない」 「ウォッチャーでなければなんだ?」 「マスクをみんなにかぶせようと考えたのは君でしょう?」  有季は、小関の反応を待った。 「よくわかったな。たしかに君の言うとおり、ぼくだ」  小関は、表情も変えずに言った。 「なぜ私をパートナーに選んだの?」 「おれの計画を実行するためには、どうしても君の力が必要だからだ」 「計画って何?」 「五人組では『マルカ』はつぶせない。それどころか返り討ちに遭《あ》うのが落ちだ」 「だから小関君がやるの?」 「おれならできる」 「なんでそんなに『マルカ』にこだわるの? 何があったの?」  有季は、それがどうしても納得いかない。 「おれのおやじは、五人組の一人だ」 「ええッ」  思ってもいなかったことを聞かされて、有季は言葉がつづかなかった。 「おやじは弱虫だ。一家心中するつもりだった。おれが止めたんだ。死ぬつもりならやれることがあるって」 「すごい! そんなこと言ったの?」 「捨てられて死ぬなんて、情けないと思わないか?」  小関に見つめられて、有季はうなずいた。 「会社を自分のものにしたらと言ったのだ。しかし、あの五人は、社長と会長に報復しようとしている。この点がおれとは違うんだ。だってそうだろう? 社長と会長をやっつけたって、残るものは犯罪者の汚名《おめい》じゃないか?」 「そのとおりだわ。会社を自分のものにしてしまうことのほうが、よっぽど賢明《けんめい》よ」 「今では、おやじも会社を乗っ取ろうという気になっている」 「でも、会社を乗っ取るなんてできるの?」 「あの五人ではできない。しかしおれには方法があるんだ」  有季は、思わず小関を見た。その表情は自信に満ちている。  なぜだろう? 有季は、そのことに興味を覚えた。 「どんな方法?」 「そのために仮面クラブを作った」 「仮面クラブをどうするの?」  小関が何を考えているのか、有季には見当もつかない。 「ただし、君の力が必要だ。助けてくれないか?」 「会社を乗っ取るなんて。そんなことできないわ」  有季は首をふった。 「『マルカ』は、放っておいてもつぶれる。そうなったら、社員は職を失ってしまう。そうならないためにやりたいんだ。これが犯罪か?」  小関の目は真剣《しんけん》だ、有季は、犯罪とは言えなくなった。 「何をしたらいいの?」 「社長の家に電話してもらいたい。さっきお会いした霊能者《れいのうしや》だって」 「霊能者なんて言っていいの?」 「大丈夫《だいじようぶ》。信じる下地はできている。君はこう言うんだ。明日マスクをつけて出社すること。それからもう一人のよく似た背格好《せかつこう》の男にもマスクをつけさせて、社長室に入れる。そうすれば、やって来た連中は、どちらが社長かわからなくなる」 「何のためにそんなことをするの?」 「替玉《かえだま》をつくるのさ、戦国の武将のよくやった手だ。こうすると、社長を殺しにやって来ても、どちらが本物の社長か、わからなくなる」 「つまり影武者《かげむしや》ね。面白い!」  有季は、思わず手をたたいてしまった。 「君が、そう説明すれば、社長は必ず言うことを聞くはずだ」 「社長を助けるためにマスクをかぶせようというのね?」 「そうなんだ。そんな人間を一人だけでなく何人もつくったら、だれが社長だかわからなくなる」 「面白い。会長にもかぶせたら?」 「会長と社長がマスクをかぶっていると考えただけでおかしいだろう?」 「おかしい」  有季は、思わず噴《ふ》き出してしまった。 「私は電話だけすればいいのね?」 「そうじゃない。これから戦いがはじまるんだからやることはいっぱいだ」 「戦いをやめさせるんじゃないの?」  有季が聞いた。 「戦いはやるだけやればいい。ただ、殺しだけはしたくない。それがおれの気持ちだ」 「それなら協力する。そのまえに聞きたいんだけど、田中君はどうなったのかしら?」  有季は、そのことがずっと気にかかっていた。 「きっと戻《もど》って来るさ」 「どこにいるの? 監禁《かんきん》されてんじゃない?」 「監禁はされてないだろう」 「どうして、それがわかるの?」 「田中を監禁しても、何のメリットもないじゃないか。誘拐《ゆうかい》なら別だけど、そうでもなさそうだ」 「すると不登校が昂《こう》じて、どこか旅にでも出たのかしら?」 「きっとそんなところさ。田中のことは、さほど気にすることはないと思う」 「でも、担任の野口先生は、心配で夜も眠《ねむ》れないらしいわ」 「それはオーバーだよ」  小関は、田中のことになると、話題をそらせようとする。 「それじゃ、電話を頼《たの》む」  小関はケータイをポケットから出して、番号をプッシュすると、有季に渡《わた》した。 「もしもし」  という男の声が聞えた。 「社長さんですか? 私はさっきお会いした霊能者でミミといいます」 「ああ、さっきの女の子か? 何か話があるのか?」 「ええ、言い忘れたことがありました。このことだけはぜひお伝えしたいんです。でないと命にかかわります」 「そうか。どういうことか教えてくれ」 「社長は命を狙《ねら》われています。それが私には見えるんです」 「本当か?」 「本当です」 「どうしたらいい?」  大器の声が変った。 「私の言うとおりにすれば命は助かります。教えてほしいですか?」 「ほしい。ぜひ教えてくれ」 「では、明日から、マスクをかぶって、出社してください。どんなことがあっても絶対素顔を見せないことです。それからもう一人か二人、社長の影武者をつくって、その人にもマスクをかぶせるのです」 「そんなことしたら、だれがだれだかわからなくなるじゃないか?」 「それが、作戦です。そうなったらたとえ社長を殺しに来ても、だれが社長かわかりません。これっていい考えでしょう?」 「影武者か、面白い。グッドアイディアだ」 「でしょう。では」  有季は電話を切ると、 「喜んでたわ」 「きっと、明日からマスクをかぶって出社するだろう」 「なんだか、想像しただけでおかしい」  有季は笑いが止まらなくなった。  5 マスクを脱ぐとき     1  社長の大器は、開店の三十分前には出社する。これは大三の厳命《げんめい》である。  社長は、だれより早く出社し、だれよりも遅《おそ》く退社する。それでなくては、社員はついてこない。  大器は幼いときから、大三にそう言われつづけてきたが、やはり早く出社することは苦痛である。  大器が社長室に入ると、秘書の横地芙沙子はすでに出社していた。 「昨夜はいかがでした? 私、社長をお捜《さが》ししたんですけど、どうしても見つかりませんでした」  芙沙子は、コーヒーを運んで来て言った。 「あれは面白い。ストレス解消だと君が言った意味がよくわかった」 「社長にそう言っていただいて嬉《うれ》しいですわ」  芙沙子は、はずんだ声で言った。 「ところで君は、あそこで霊能者《れいのうしや》だという少女に会ったことあるか?」 「いいえ、会ったことございません。そんな人と会われたのですか?」 「おれは会ったのだ」 「どうして少女とわかりました? 顔は見えないんでしょう?」 「雰囲気《ふんいき》でわかるさ。その少女が、おれのうしろに霊がついているというのだ」 「気持ちわるい」  芙沙子は肩《かた》をすくめた。 「はじめ、そんなことは信じていなかった。そうしたら、その老人の霊は顔から血を流しているというのだ。おれは、とっさに会長のことを思い出してしまった」 「なんだか、鳥肌《とりはだ》が立ってきました」 「それでも、まだ信じなかったんだ。ところが、その少女は行ってしまうと、男がやって来て、背中をたたいたんだ。そのとたん、『血がついてる』と叫《さけ》んだ」 「やめてください!」  芙沙子は、顔を両手でおおった。 「その男の掌《てのひら》には、血がべっとりとついている。さすがにおれもいやな気がしてきた。するとまた別の男がやって来て、背中に血の文字が見えると言った」 「社長、どうして私を脅《おど》かすんですか?」 「脅かしてるんじゃない、事実なんだ。その血の文字は、カルマと読めると男が言った」 「カルマですか?」 「カルマの意味を知っているか?」 「知りません」  芙沙子は首をふった。 「業《ごう》ということだ。業というのは、因果の道理によって、必ず未来にその結果が生じるというものだ」 「業ですか……」 「おれは聞いたとたん会長のことを思い出した。会長はもしかして殺されるかもしれない」 「悪いじょうだんはやめてください」 「あの通告文にあったろう。おれたち親子が私財を投げ出さなければ、物理的手段に訴えるって。あれは殺すという意味だったんだ」 「社長、それは悪いじょうだんです。社長を脅かそうと企《たくら》んだのでしょう。そういうことは、あそこではしょっちゅうです。遊びですよ」 「私はびっくりして、ロッカールームで服を着替《きが》えた。するとスエットスーツの背に血の痕《あと》はなかった」 「そうでしょう。驚《おどろ》かすのもゲームです」 「おれも、そうだったと思って家に帰った。すると、霊能者の少女から電話があった」 「なぜ、また電話なんかしてきたんですか?」 「それが、こういうことなんだ。おれは命を狙《ねら》われている。だから影武者《かげむしや》をつくったほうがいい。そのためにはマスクをかぶり、ほかにも、二、三人のマスクマンをそばに置いておけと言うのだ」 「その少女が、そんなことを言ったのですか?」 「そうだ。君はどう思う?」 「ふざけている気もしますが、マスクをかぶっていらっしゃったら、安全という気もします。けれど……」 「けれどなんだ?」  大器は、芙沙子を見つめた。芙沙子の表情は乏《とぼ》しいが、聡明《そうめい》そうな顔だ。 「いつもマスクをかぶっていらっしゃったら、みんなから何かいわれるのではないかと思いまして」 「そうだな。それはたしかにいえる。しかし、今マスクは子どもたちの間で流行しているんだろう?」 「それはそうですけれど……」  芙沙子は、くすりと笑った。 「マスクをかぶったらおかしいか?」 「たとえおかしくても、それで危険が少しでも少なくなるなら、おやりになったほうがいいです。でも、笑われると思います」  芙沙子の明快な答えが気に入った。 「マスクをかぶっていると、楽しくなる。笑われてもいい。今日からかぶろう」 「では、私がマスクを買ってまいりましょうか?」 「三つ頼《たの》む」 「では、行ってまいります」  芙沙子は、社長室を出て行った。  それと入れ違《ちが》いに大三から電話が入った。 「わしだ」  と言う大声を聞いて、ほっとした。 「おはようございます」 「今からそちらへ行く」  大三は、それだけ言うと電話を切ろうとした。  ふっと、大三の身に危険が起きそうな気がした。霊能者のせいだ。 「お父さん、何で来られますか?」 「車だ。決まってるだろう」 「それは、おやめになったほうがいいです」  どうしてもやめさせなくてはならない。 「何を言っとるんだ?」 「車に乗るのは危険です」 「おまえ、気はたしかか?」 「たしかです。お父さんは狙われています。もしどうしてもと言われるなら、別の車にしてください。お母さんの車でもいいです」  大器の声が切迫《せつぱく》していたのか、 「そんなばかなことができるか!」  大三は、一喝《いつかつ》すると同時に、受話器をたたきつけるようにして電話を切ってしまった。  大器は、すぐ母親に電話して、大三の車には乗せないで、母親の車で来させるよう言った。 「事情は、あとで説明します」  そう言って電話を切った。  二十分ほどしたとき、芙沙子がマスクを買って戻《もど》って来た。  大器は、マスクをかぶるかどうか迷った。  安全のためにそうしたなどと言えば、また大三に一喝されるのに決《ま》っている。  そうかといって、かぶらずにいるというのも危険な気がする。 「どうなさいます?」  マスクを前にして、躊躇《ちゆうちよ》している大器を見て、芙沙子が言った。 「考えているところだ。今会長がここにやって来る。マスクをしたおれを見たら、きっと一喝するだろう」 「マスクをして何人も並んでいたら、だれが社長だかわかりません。怒《おこ》られても苦にならないと思います」  芙沙子の言うとおりだと思った大器は、あらかじめ選んでおいた二人の社員を呼ぶと、同じ服を着てマスクをつけた。  芙沙子にはうしろを向かせておいて、三人の中から大器を選んで見ろと言った。  芙沙子は向きを替《か》えると、三人を見つめた。何度も首をふった挙句、 「わかりません」  と言った。 「これならOKだ」  大器は、大三が現われるのが楽しみになった。     2  大三が社長室に入ると、三人のマスクマンが揃《そろ》って、 「おはようございます」  と頭を下げた。 「なんだ。おまえたちは?」 「社長でございます」  三人が声を揃えて言った。 「ふざけるのも大概《たいがい》にしろ!」  大三は、頬《ほお》を紅潮させてどなった。 「お怒《いか》りはごもっともですが、私はマスクを取ることができないのです」  マスクの一人が言った。 「なぜマスクを取れんのだ?」  大三は、キレる寸前だ。 「マスクを取ったら殺されます」 「なんで殺されるんだ? 話してみろ」 「お告げです。こうしていないと殺されるというお告げがありました。会長もかぶってください。さもないと危険です」 「わしは、たとえ殺されても、そんなものはかぶらん」  大三は頭をふった。 「会長、通告の日まであと二日です。言うことを聞いてください」  大三には、これが大器のようにも見えるし、そうでないみたいでもある。 「聞けんと言ったら聞けん。おまえら、そのかっこうで外に出るつもりか?」 「はい、出ないわけにはいきません。ただし万一のことを考えて、三人揃って行動します」 「わしはやらんぞ」  大三が言ったとき電話が鳴った。マスクの一人が電話を取って、大三に渡《わた》した。 「私だ」  妻からだ。声がふるえている。何かあったなと直感した。 「どうした?」  大三が言った。 「あなたの車に爆弾《ばくだん》がしかけてあって、燃えてしまいました」 「それだけか?」 「はい」 「警察に通報しておけ」 「はい、あなた大丈夫《だいじようぶ》ですか?」  妻の栄子《えいこ》は動転している。 「大丈夫だ。心配ない」  大三は受話器を置いた。 「どうしました?」  マスクの一人が聞いた。 「わしの車に爆弾をしかけたやつがいる。破裂《はれつ》して焼けてしまったらしい」 「よかった。もし車を替えなかったら、今ごろはどうなっていたか……。敵を甘《あま》く見てはいけません」  大器が心配しているのは当っているかもしれない。 「だれだ? こんなふざけたことをしおったのは?」 「『エイトツー』は、そこまではやらないでしょう。考えられるのは、リストラでクビにした連中です」  マスクの一人が言った。どうも、こいつが大器らしい。 「目的はなんだ? わしを殺すことか?」 「私たちが、会社に私財を提供しなければやるでしょう。その警告だと思います」 「そんなことはできるわけがない!」  大三は怒鳴《どな》った。 「それでは連中と全面戦争です」 「やむを得ん」  大三は決意した。 「そう思ったからマスクをかぶったのです。会長もぜひかぶってください。そうすれば、会長だということはわからなくなります」  たしかに、大器の言うとおりだが、それではかぶろうと言うのは、大三のプライドが許さない。 「わしは、そんなみっともないものはかぶらん」 「そういう頑固《がんこ》は老化のはじまりです」  大器のやつ、憎《にく》いことを言いおって。  しかし、自動車にしかけた爆弾のことは気になる。この次はどんな手に出てくるか、見当もつかない。  結局、大三も渋々《しぶしぶ》マスクをかぶることにした。 「これで、もう安全です」  大器は、満足そうにうなずいている。  電話が鳴った。大三はぎくりとした。こんなことははじめてだ。 「会長にです。名前を言いません」  大器が、受話器を渡《わた》しながら言った。 「どなたですか?」  相手がだれだかわからないので、一応|丁寧《ていねい》に対応した。 「会長のファンです。ご無事でよかったですね。これからも気をつけてください」 「だれだ!」  怒鳴ったとたん、電話は切れてしまった。 「だれからですか?」  大器が聞いた。 「爆弾犯人からだ。わしが死んだものと思ったのだろう。わしが生きていたので、ご無事でよかったと、ふざけたことを言いおった」 「敵は挑戦的《ちようせんてき》ですね?」 「そんな悠長《ゆうちよう》なことを言わんと、早く見つけろ!」 「わかっています。大体の見当はついています」  大器は、自信ありげに言った。 「そうか。それでは、わしは会長室に行く」 「それはお待ちください」  大器が止めた。 「なぜ止める?」 「会長室には、万一のために会長の影武者《かげむしや》を入れておきます。会長はここにいてください」 「ここにいつまでおれというのだ?」 「そう長くではありません。会長の影武者を歩かせれば、きっと敵が炙《あぶ》り出されます」 「囮《おとり》というわけか?」 「そうです」 「おまえも、なかなかやるじゃないか」  大三は、これまで大器をほめたことはない。はじめてほめたので、大器は体をもじもじさせた。 「どんなやつが現われるか楽しみです」  大器は自信たっぷりである。  このくらいやれるなら、一切をまかせてもいいかもしれない、と大三は思った。     3 「お父さん、この人がぼくのパートナー有季君」  小関に父親を紹介された有季は、 「はじめまして、有季です」  と頭を下げた。 「君のことはヤスから聞いてるよ」  木村が言った。  知的で優しそうな笑顔だ。叛乱軍《はんらんぐん》の大将《たいしよう》とはとても思えない。  一家心中しようかと言ったほうが、ぴったりと合う印象だった。 「君の霊能者《れいのうしや》の演技はすばらしかった。社長はすっかりのせられて影武者をつくり、マスクを脱《ぬ》がないそうだ」 「やったあ!」  有季は思わず手をたたいてしまった。 「そのうえ、会長までがマスクをかぶりはじめた」  木村が言った。 「それってニュースになるわ。テレビに教えてあげよう」  有季は、ケータイで矢場のケータイに電話した。これだと、つかまらないことはない。 「もしもし有季です。面白いネタを教えてあげます」 「そうか、ありがとう。なんだ?」 「スーパーの『マルカ』知ってるでしょう?」 「知ってる」 「あの会社の社長と会長が、マスクかぶってるんだって」 「どうしてだ?」 「だれかに襲《おそ》われるといけないからって、マスクの影武者をつれて歩いてるんだって。取材したら面白いよ」 「そいつは絵になるな。早速出かける。ありがとう、あとでおごるぜ」  矢場は上機嫌《じようきげん》で電話を切った。 「これで、テレビが取材に行きますよ」  有季が言うと小関が、 「面白いことになってきたぜ、お父さん」  と言った。 「なぜマスクをかぶっているか、理由を聞かれたら、通告状のこと話すかもしれませんよ。そうしたらだれかに恐喝《きようかつ》されていたことがわかります。だれだと言うでしょうか?」  有季が言った。 「お父さんたち五人組のことはばれてるの?」  小関が聞いた。 「ばれてはいないはずだ」 「だけど、いちばん最初に疑われるんじゃないかな?」 「それは疑われるだろう。しかし証拠《しようこ》がないから大丈夫《だいじようぶ》だ」 「本当に?」  五人の中に裏切るようなのはいないか?  小関は、疑わしげに父親の顔を見た。 「五人の中で裏切るような者はいない。しかし、一人過激な人間がいる。これが心配だ」 「だれ?」 「金本だ。どうしても二人に復讐《ふくしゆう》したいと言っている」 「なぜですか?」  有季が聞いた。 「彼は妻に去られて一人ぼっちになってしまった。それ以来|自暴自棄《じぼうじき》になっている。それが気になるけれど大丈夫だろう」 「暴走したりしない?」 「それはしないよう、説得している」  木村の表情が心なしか暗く感じられた。 「あの三件の放火なんですけど、あれはだれがやったんですか?」  有季は、それがずっとひっかかっていた。 「それは……」  木村は、それ以上言わず黙《だま》ってしまった。 「知ってるんだね?」  小関が言った。 「知っている。あの三人は昔『マルカ』に勤めていたが、トラブルがあって辞めた」 「トラブルって何?」 「使いこみだ。本当は刑事事件になってもいいのだが、会長の一存で警察には言わず退職させた。それ以来三人は会長に恩義を感じ、いくつかの汚《きたな》い仕事を引き受けたりしていたのだ」 「汚い仕事って何ですか?」  有季が聞いた。 「ライバル店の悪いうわさを流すとか、仕入先に圧力をかけるとか、そんなことだ。要するに、会長のお庭番といったところか」 「会長って、相当なワルですね?」 「法律|違反《いはん》すれすれの商売で、ここまで大きくしたんだ。ワルは業界でも有名だ」 「そこまでワルだったら、恨《うら》んだり憎《にく》んだりしている人はいっぱいいるでしょうね」 「恨んでるのは社員だけじゃない。ぶっ殺してやりたいという言葉を何度も聞いたよ」 「お父さんは、相手を否定するんじゃなくて、自分を否定するんだ。だから、おれが戦ったらと言ったんだ」  小関が言った。 「この戦い、勝つか負けるかわからない。というより勝ち目のない戦いだけれど、やってよかったと思ってる。やるだけやれば、結果はどうでもいい」  木村が言うと小関が、 「それは違《ちが》うよ、お父さん。結果が悪かったらやらないほうがよかったってことになるじゃないか」 「私もその意見にさんせいです。やりかけた戦争は負けたらだめです。ネバーギブアップです」  有季も、小関につづいて言った。 「君たちは元気がいいな」  木村が羨《うらやま》しそうに言った。 「ひとつお聞きしていいですか?」  有季が言った。 「なんでも聞いてくれ」 「三つの放火事件に、マスクがあったのはなぜですか? あれは偶然《ぐうぜん》ですか?」 「偶然ではない。警告だよ。おまえたちをマスクが処刑《しよけい》するぞという」 「それで、池島さんは殺されたんですか?」 「池島を殺したのは私たちではない」 「すると会長ですか?」 「池島は会長のスキャンダルを握《にぎ》っていたから、その見返りとしてコンビニの店を出させたのだ。焼けたあと、すぐ店が再開されたのはそのためだ。しかし彼《かれ》はそれだけでは満足せず、さらに金を要求したのかもしれない。それとも……」 「それとも何ですか?」  有季は、木村の顔を見た。  木村は黙ってしまった。 「お父さんたちではないとすると、だれ?」  小関が聞いた。 「それじゃ……」  有季は、だれだろうと思った。  しかし、だれの顔も思い浮《う》かばない。  その日の夕方、テレビニュースの時間に、『マルカ』の会長の会見の模様が放映された。  インタビューしているのは矢場である。 「会長がマスクをしている理由をお聞かせください」 「今マスクが流行しているから、わしもまねしたのだ」 「どうです、マスクをかぶった具合いは?」 「いいね」 「どこがいいですか?」 「いつでも、かくれんぼうしてるみたいなところがいい」 「かくれんぼうですか?」 「マスクをしていると、自分は隠《かく》れて別の者が会長室にいれば会長と思う。そうだろう?」 「そうです。もしかして、あなたは会長の替玉《かえだま》ですか?」  矢場が聞いた。 「実はそうなんだ。わしは会長の替玉じゃ」 「まさか……?」  しかし、矢場の表情は混乱している。 「君は、わしを本物かにせ物か見破るためには、テストをしなければならん」 「そのとおりです。しかし、あなたは本物です」 「どうして、それがわかる?」 「私の勘《かん》ですよ」 「勘は頼《たよ》りにならん」 「いえ、間違《まちが》いなく会長です」  矢場がそう言ったとき、ドアが開いて見覚えのある加藤大三が現われた。 「あなたは……?」 「わしが本物だ」  矢場は、唸《うな》った。 「やられました。しかし、なんでこんなまねをなさるんですか?」 「一つは遊び心、こうやって人を騙《だま》すのは愉快《ゆかい》なものだ。もう一つは、世間のうわさじゃ」 「どんなうわさですか?」 「わしの命を狙《ねら》っておる者がいるといううわさじゃ。そのためにマスクをかぶり、影武者をまわりに置いてあるんだ。これでプロの君すら騙すことができることが証明された」  ——こいつ  と思ったが、まんまと騙されたのだから一言もない。 「命を狙われるというのはただ事ではありませんが、差支《さしつか》えなかったらお話しねがえますか?」 「いや、それは言えない」 「そうですか。それでは、これからもずっとマスクをかぶって出社なさるんですか?」 「まあ、そういうことになるだろう」  大三は、楽しんでいるふうに見えた。 「それでは、ご無事をお祈《いの》り申し上げます」  矢場のインタビューは、以上のようであった。     4  有季は、貢と一緒《いつしよ》にそのテレビニュースを観《み》た。 「この会長のマスクを取らせる方法を考えたぜ」  貢が、にやにやしながら言った。 「どうするの? 頑固《がんこ》じじいだからこうなったら意地でも取らないよ」 「そんなの簡単さ。兜町《かぶとちよう》に、『マルカ』の加藤会長は死んだ、それをごまかすために、影武者にマスクをかぶせているという情報を流すんだ。そうすれば、『マルカ』の株はいっぺんに暴落さ」 「そうか、そうなったら、生きてるって素顔で、記者会見しなくちゃならないね」  有季は、貢のアイディアにすっかり感心した。 「じゃ、兜町にメールを送る?」 「そのまえに、もう一度社長に言ってやれよ。会長はマスクをはずすと、生命に危険が生じますって」 「生命の危険って、何だって聞かれたらどう答える?」 「それはお教えできませんって、惚《とぼ》けておいたほうがいいよ」 「わかった。じゃあ電話するわ」  有季は、大器が教えてくれたケータイの番号に電話した。 「もしもし」  と言う声がした。 「私、霊能者《れいのうしや》のミミです。私の言ったとおりにしていますか?」 「ああ、している」 「会長さんはどうなさいました?」 「会長もマスクをかぶっている」 「さっきテレビで素顔を見ましたよ。あれはいけません。マスクをかぶっていさえすれば、危険は絶対ございません。特に明日は、どんなことがあっても、マスクをおはずしにならないように。会長さんにも、くれぐれもお伝えください」 「わかった。わざわざ忠告してくれてありがとう。感謝するよ」 「どういたしまして。では、くれぐれもこのことをお守りくださいませ」  有季が電話を切ると、貢が腹を押《おさ》えて笑い転げた。 「こんなこと言われちゃって、会長はどうする?」  貢は、また笑い出した。  有季は、矢場に電話してニュースを観たと言った。 「どうだった?」 「頑固じじいがよく出ていて面白いインタビューでした」 「そうか、君にそう言ってもらって嬉《うれ》しい」  矢場は、こういうとき素直に喜ぶ。そこが矢場のいいところだ。 「ところで、貢と相談したんですけど、明日は会長がマスクを脱《ぬ》ぎますから、またインタビューしてください」 「どうしてマスクを取るんだ?」  矢場が聞いた。 「これは、私たちが考え出したマジックです。リモコンでマスクを脱がせるんです」 「なんだ、じょうだんか?」 「じょうだんではありません。明日は必ずマスクを取りますから、スタンバイしていてください」 「わかった。君を信じてそうする」  矢場が言った。 「あの加藤大三というじいさん、あいつは相当のワルらしいです」 「それは、取材してわかった」 「あのじいさんの命を狙《ねら》っているのは、一人や二人ではありません。素顔になったら、かなりヤバイと思います」 「そうだろう。それはひと目見ればわかる。あれは、たくさんの人を泣かせてきた顔だ」 「それじゃ、明日を楽しみにしていてください」  矢場の電話を切ると、野口から電話があった。 「今日は、とってもいいことがあったの。真っ先にあなたにお知らせしようと思って」  野口は声をはずませている。 「先生、わかりました」 「本当?」 「ええ、田中君が学校に来た。そうでしょう?」 「どうして、そんなことがわかるの? あなた超能力者《ちようのうりよくしや》?」  野口は心底驚《しんそこおどろ》いている。 「これくらい、超能力がなくてもわかります。常識ですよ」 「そうかあ……。とにかくそうなの。田中君が来たのよ」 「それはよかったですね。今までどこにいたと言ってました?」 「行方《ゆくえ》定めぬ旅してたんだって」 「かっこいい」  有季が言った。すると野口が、 「私もそう言ったのよ。かっこいいことしたねって」  と言った。 「どこへ行ってたんですか?」 「東北らしいわ」 「マスクはどうしたんですか?」 「旅では、もちろんしてなかったみたいだけれど、学校にはしてきたわ」 「もう取ったかと思ったのに……」  有季は、やっぱりと思った。 「取ったらしいんだけれど、そうすると具合いがわるいんだって」 「そうですか……」  マスクがそんなに威力《いりよく》があるなんて、どうしても思えない。しかし、田中の場合は、それで精神状態が安定するのだから、とやかく言うわけにはいかない。 「旅に行って変りましたか?」 「ええ、ずいぶん大人《おとな》っぽくなったみたい」  たった四、五日の旅で、そんなに変るわけないのに。  有季は、そう言おうと思ったがやめた。 「でも、自殺したりしないでよかったですね」 「そうよ、そのことをいちばん心配してたの」  野口がどう思っていたか、有季にはよくわかる。 「田中君に会ってみたいんですけれど。私、素顔が見たいんです。マスクをはずして来てくれるよう言ってください」  有季が言った。 「あら、そうだった? じゃ、明日にでも会うように言うわ。『フィレンツェ』に行けばいいでしょう?」 「ええ、そうできれば嬉《うれ》しいです」  有季は、どうしてもマスク第一号の田中に会う必要があった。 「おれは小関に会ってみたいんだ。電話では話したことあるけど、顔を見たことがない」  貢が言った。 「アッシーは、田中君の顔を見てるけど、小関君の顔は見ていない。私は小関君は見ているけど、田中君は見ていない」 「小関は、おれと会うのを避《さ》けてんだ」  貢は、小関のことになると敵愾心《てきがいしん》むき出しだ。  そう思った有季は、小関のことを貢にはあまり話さないようにしている。  するとそれが、二人だけでこそこそやっているふうに思われて、貢の機嫌《きげん》がよくなくなる。  こればかりは、有季ではどうにもならない。  その夜|遅《おそ》く、小関から電話があったので、貢の計画を話した。 「それってすごい! 貢、やるじゃん」  小関は、貢に聞かせてやりたいと思ったくらい貢をほめまくった。 「すると会長は、どうしても素顔を見せなくてはならないことになるってわけ?」  小関が言った。 「そうすると、霊能師ミミの警告を無視することになって命を落すかもしれない」 「社長はどうするかな? 困ったな。おれだったら、どうしていいかわかんないよ」  小関は、言いながら笑った。 「さっき野口先生から電話があって、今日田中君が学校にやって来たんだって」 「彼《かれ》はどこにいたんだ?」 「一人で旅してたんだって」 「そうか」  小関は、あいかわらず田中のことにはあまり関心がなさそうな口ぶりだ。 「私、明日田中君に会ってみようと思ってるの」 「会ってどうするんだ?」 「なんてったって、この事件の発端《ほつたん》は田中君でしょう。会ったときはマスクしてたから素顔を見てないのよ。素顔を見てみたい。小関君も一緒《いつしよ》に会ってみない?」 「おれは会いたくないよ。会っても意味がない」  小関は、まったく関心を示そうとしない。 「じゃあ、私一人で会ってみる」 「田中はマスクを取らないと思うぜ」 「私はマスクの下の顔を見てみたいのよ」 「田中じゃなかったらどうする? そういうことだってあり得るぜ」 「本物の田中君を知らないんだから、そういうこともあるわね」  まったく、マスクってのはいいこともあるけれど困ることもある。 「そんなことより、おやじたちの計画がうまくいってないんだ」  小関は暗い声になった。 「どうなってるの?」 「意見がうまくまとまらないらしい。会社をぶっつぶしてしまおうという者と、会社を自分たちのものにしようという者。そこまでいかなければ、常務に恩を売って、新発足した会社に復帰しようという者。それからこれは超過激《ちようかげき》だけれど、会長と社長を暗殺しようという案」 「今ごろになって、そんなにばらばらになってたら、結局どれも成功しないと思うけれど」 「そうなんだよな。結局おれたちがやるしか、ないってことになるんだ」 「計画はあるの?」 「あるさ、もちろん」 「教えてよ」 「明日話す。じゃあな」  小関は、唐突《とうとつ》に電話を切った。  ——明日、  そうか、田中と会うのも明日だった。  時間をずらさなければならないと思った。     5  その夜、田中がやって来るのは六時だったが、有季は三十分前に『フィレンツェ』に着いていた。  貢と話そうと思ったのに、貢は用事があって出かけて、六時少し過ぎに帰って来ると伝言があった。  五時四十五分に小関がやって来た。 「ちょっと早かったかな」  小関は席に着くと、時計を見ながら言った。 「そういえば、小関君って約束の時間に遅《おく》れたことないね」  有季も時間は守るほうだ。 「おやじから電話があって、もう少しで遅れるところだったんだ」 「お父さんのほう、うまくいってるの?」 「その反対だ。どうやら会長の切り崩《くず》しにあってるらしい」 「どうして?」 「スパイがいる。今夜がヤマだっておやじは言っていた」 「それじゃ、心配ね?」 「心配したってはじまらないさ」  小関は、まるで大人みたいに落ち着きはらっている。 「五人の結束は固いって言ってたのに」 「人間って弱いんだよ。もっとも、これはおやじの意見だけど」 「ちょっと淋《さび》しいわね。じゃ、このまま放っとくの」 「放ってはおかない。おれはおれの方法でやる」 「どういう方法?」 「おやじに教えたんだけど、うまくやるかな?」  ケータイが鳴った。 「もしもし」と言うと、「矢場だ」と言った。 「何かあったんですか?」 「加藤大三が明日記者会見するそうだ」 「どういう記者会見?」 「おれは生きてるって記者会見さ」 「それじゃ、マスクをはずすんですね?」 「もちろんだ」 「ありがとう」  ケータイを切った有季は、 「明日、大三が記者会見するって。マスクを脱《ぬ》ぐわ。今から社長に電話する」  と小関に言ってから、大器に電話した。 「もしもし、霊能師のミミです。会長、明日記者会見するそうですね?」 「そうなんだ。そうするしかないのだ。株が暴落してしまったから」  大器の声は暗い。 「記者会見は、マスクを脱いでやるんですか?」 「マスクしてたら、本人とは認めないだろう」 「マスクを脱いだら、会長の命はないって申し上げたでしょう? 私の忠告を無視するつもりですか?」 「君、脅《おど》さないでくれよ、おれはおやじにやめてくれと言ったんだ。しかしこれは会社の危急|存亡《そんぼう》のときだ。自分の命のことは言ってられないとおやじは言うんだ」 「これは、だれかの陰謀《いんぼう》ですね。会長を亡《な》き者にする」 「そうか……」  大器は考えこんでしまった。 「心当りはありますか?」 「ある。まず考えられるのは小倉派だ」 「小倉ってだれですか?」 「常務で、若手の社員がついている」 「クビにしてしまえばいいのに」 「それをしたら、会社は大混乱に陥《おちい》るからできない」 「もう一つ怪《あや》しいのはだれですか?」 「『エイトツー』の八木だ。八木がうちにスパイを潜入《せんにゆう》させたかもしれない」 「そこまでやりますか?」 「やる。うちの会長だって、同じことをやるだろう。どっちも猛獣《もうじゆう》みたいな連中だから」 「では、どうしてもマスクを脱いでやるんですね?」 「それしか方法はないだろう」 「それでは、私が呪文《じゆもん》を書いたマスクを差し上げます。そのマスクを直前までかぶっていて、記者たちの前で脱ぐのです。そうすれば、命は大丈夫《だいじようぶ》です」 「そうか、ありがたい」  大器は声をはずませた。 「呪文だけでは効果がありませんから、かぶるとき、呪文に液体をふりかけてください。それは瓶《びん》に入れて差し上げます」 「どんな液体なんだ?」  大器が聞いた。 「パキスタンの北西部にガンダーラというところがあります」 「ガンダーラなら聞いたことがある。仏教美術のあるところだ」 「よくご存知ですね。そこの修行者が何十年もかけて作った秘薬です。原料は木の実や草だといわれています。この液体を頭に塗《ぬ》れば永遠の生命を得られるそうです」 「そんな貴重なものを持っているのか?」 「はい、修行者から分けてもらいました。それを特別にお分けします」 「悪いな」 「小さい瓶です。それをかぶる直前にマスクの呪文の上に塗ってください。その二つは、明日お届けします」 「すまない。君にはあとでたっぷりお礼をする」 「お礼なんていりません」 「ますます気に入った。近いうちに君に会いたい。そのときはマスクを取って来てほしい」 「いいですわ。今日のところは、まだマスクを取れませんので、会長のかぶるマスクは、駅のコインロッカーに入れて、キーをお届けします。そのキーでロッカーを開けてください。それでは」  有季は笑いをこらえて電話を切ると、話の内容を小関に説明した。 「そのガンダーラの薬ってのは本当に効くのか?」 「効くわよ。この薬をつけたマスクをかぶると……」 「どうなるんだ?」 「それは、明日のお楽しみ。ところで、田中君遅いわね。約束の時間を十分も過ぎてるわ。どうしたのかしら? 家に電話してみる」  有季は、ケータイで田中の家に電話した。  田中はいるかと聞くと、もうずいぶん前に家を出た、と母親が言った。 「もうずいぶん前に家を出たって。どうしたのかしら?」 「どうしたんだろう?」  小関が言った。 「まだ惚《とぼ》けてるの? 田中君」  有季が言った。 「おれは小関だ」 「わかってるのよ。小関君が田中君だってこと」  有季が言ったとき、貢が帰って来た。 「お帰り」  有季が言うと、貢は小関を見て、 「田中、どうしてた?」  と肩《かた》をたたいた。 「紹介するわ、彼《かれ》が小関君よ」  有季が言うと、貢は、 「それって、まじか?」  と言ったまま、田中の顔を見つめている。 「実はそうなんだ」  田中は、てれ笑いした。 「そうか。すっかり騙《だま》されてた。有季は知ってたのか?」  貢が聞いた。 「私がおかしいと思ったのは、小関君がDと言ったとき、あれはなんとなく不自然だったわ」 「そうか……。やっぱりな」  田中はうなずいた。 「そのあと、私とアッシーがそれぞればらばらに小関君と田中君を見ていることを知ったとき、これは間違《まちが》いないと思ったわ」 「おれは全然気づかなかったよ」  貢が頭をかいた。 「それにしても、君ってほとんど学校には行ってなかったんだろう?」  貢が言った。 「ほとんど不登校。たまに行ってもだれとも口をきいたことなかった」  田中が言った。 「その田中君が、こんなこと考えるなんて、まだ信じられない。どうしても小関とつながらないのよ」 「うちで、いろいろ空想していたんだ。マスクをかぶって学校に行ったら、どんなことになるかって」 「結果は空想以上だったろう?」  貢が言った。 「うん。小関をやっているうちに、どっちがどっちだかわからなくなっちゃった」 「でも、マスクをかぶってネクラが明るくなったんじゃないの?」 「それは違うんだ。その前におれはネクラではなくなっていたんだ。だけど、マスクをそのきっかけにしたかったんだ」 「そうか、その前に仮面クラブをやってたんだ」 「それも、君が考えたのか?」  貢が聞いた。 「タコ部屋《べや》に押《お》しこめられたおやじが、死ぬなんて言い出したとき、それは逆じゃないかと思ったんだ。死ぬのは経営者じゃないかって」 「それはそうだよ」  貢が何度もうなずいた。 「そこで、どうやってやつらをやっつけるか考えたんだ。そしてマスクを思いついた」 「なるほど」 「有季を騙したのは悪かったけど、そのほうが面白かったからさ」  田中が言った。 「私に会うたびに、こいつアホと思ってたんでしょう?」 「そうは思ってなかった。有季をどうしてもパートナーにしたかったんだ。貢には悪かったけど。おまえ、有季がおれと仲良くするとヤキモチ焼いてたろう?」 「そんなことはないよ」  貢は、そっぽを向いて言った。 「うそついてもだめだ。バレバレだ」 「だけど、本当のこと言うと、小関が田中でよかったぜ」 「そうだろう。とうとう本音を吐《は》いたな」 「これからどうするんだ?」  貢が話題を変えた。 「やつらの息の根を止めてやるんだ」 「殺すのか?」 「まさか。そういうアホなことはやんないよ。とにかく力を貸してほしいんだ」 「いいよ」 「ありがとう」  田中は、貢の手をぎゅっと握《にぎ》りしめた。     6 『マルカ』本社の会議室に、テレビ、新聞などマスコミ各社の記者が集まった。  本社は、数十名の警備員で固められ、記者たちは、いちいち身分証明書をチェックされた。  そのあまりのものものしさに、会見がはじまると、いっせいに記者たちはクレームをつけた。 「まことに申し訳ありませんが、本日マスクを取ると、社長と会長の命はないと脅迫《きようはく》されておりますので、失礼の段は重々お詫《わ》び申し上げます」  広報室長が、デスクに額をすりつけんばかりにして謝った。 「何か脅迫される理由でもあるんですか?」  記者の一人が質問した。 「ここ一週間ほど前から、会長と社長が会社に私財を提供しない限り、物理的手段に出るといわれております。その期限の日が今日なのです」  広報室長が言った。 「社長にお聞きしますが、私財を提供する意志はお持ちですか?」 「全然ございません。マスコミ各社に、会長は死んだというデマを流したのも、その報復ではないかと思われます」  大器が言った。 「みなさん、マスクをかぶっておられるので見分けがつきませんが、あなたは本物の社長さんですね?」  記者の一人が念を押《お》した。 「そうです。私が社長の加藤大器でございます」 「マスクを取っていただけませんか? それでないと、あなたが社長さんかどうか確認できません」 「それは……」  大器は言い澱《よど》んだ。 「マスクは取れないとおっしゃるんですか」 「はい」 「なぜですか? 理由を説明してください」 「マスクを取ると、私に悪いことが起こると予言されているのです」 「では、あなたはその予言を信じているのですね?」 「はい。もともと私はそういうものを信じていませんでしたが、信じざるを得ない事実があったのです」 「あなたの横にいらっしゃる方たちはどなたですか?」 「取締役《とりしまりやく》です」 「その中に会長さんもいますか?」 「おります」 「会長さん、手を上げてください」  記者が言うと、大三が手を上げた。 「では、会長命令で、全員マスクを取るよう言っていただけませんか? とにかく、これでは会見にはなりません」 「よろしい。ではそういたします。全員、マスクをはずしてもらいたい」  大三が言うと、二人がマスクを取った。その顔を見たとたん、 「君らはだれだ?」  と大三が叫《さけ》んだ。 「取締役ではないんですか?」  記者が聞いた。 「たしかに、マスクをかぶるまでは取締役でした。しかしこの二人は私の見知らぬ男たちです。大器、これはどうしたことだ?」  大三は大器に聞いた。 「新しい取締役です」  大器は首を振《ふ》った。 「おまえは、本物の大器か?」  大三は、大器のマスクに手をかけた。その手を払《はら》いのけた大器は、 「お父さん、息子《むすこ》の声を忘れたんですか?」  と言った。 「あんたらの仮面劇はもういいかげんにやめてくれませんか。早く素顔を見せてくださいよ」  記者が詰《つ》め寄った。 「わしのマスクをはずせ」  大三が秘書に言った。  秘書が大三のうしろにまわり、マスクの紐《ひも》をゆるめた。それからゆっくりとマスクをはずした。  その下からつるつるの大三の頭が現われた。 「あッ」  という声が記者団から洩《も》れた。 「会長、あなたの髪《かみ》はかつらだったんですか?」  記者に言われて、大三は頭に手をやった。 「どうした?」  大三はマスクをのぞきこんだ。マスクにかつらがはりついていた。  記者団から爆笑《ばくしよう》が起こった。 「これで、本物だとわかりましたか?」  大三は脇《わき》に置いたマスクを、もう一度かぶり直した。 「よくわかりました。加藤大三氏はたしかに健在だった。しかしおたくの社はかなり経営が苦しいといううわさですが、そちらのこともお話しねがえますか?」 「大丈夫《だいじようぶ》です。私は今、起死回生の手を考えています。これによってわが社は一挙に立ち直ります」 「それはいつですか?」 「一週間後にやります」 「それまで、もちますか?」 「失礼なことを言うな! わが社はそこまで落ちぶれてはおらん」  大三が怒鳴《どな》った。 「会社のことではありません。あなたのことですよ。今日が通告の日なんでしょう?」 「そちらも大丈夫。こうしてマスクをかぶったからには、だれも私の命は狙《ねら》えません」  そこまで言ったとき、大三は胸を押《おさ》えて倒《たお》れこんだ。 「お父さん、どうしたんですか?」  大器が駆《か》け寄ってマスクをはずした。 「救急車!」  と叫《さけ》ぶ声がした。 「心臓に耳を当ててみなさい」  記者に言われて、大器は、大三の心臓に耳を当てた。 「動いていない。止っている」 「心臓マッサージだ」  記者の一人が、心臓マッサージをはじめた。     7  加藤大三は、ふたたび息を吹《ふ》き返すことはなかった。  死因は、マスクの口のあたりに塗《ぬ》られた毒物であることがわかった。  大三は毒物が口に入った瞬間にほとんど即死状態になっていた。それがどういう種類の毒物かはまだ特定できない。  大三は、記者団の前でマスクをはずした。次に、脇に置いたマスクをまたつけた。  その僅《わず》かな間に、マスクの外側に毒物を塗ったとしか考えられない。  矢場は、その間の経緯《けいい》をビデオに撮《と》っていた。  そのビデオの再生に、有季、貢、田中が立ち会った。  秘書が大三のマスクをはずす。次に大三のつるつる頭がクローズアップされた。 「このとき、全員の視線は大三の頭に集中して、はずしたマスクのことに関心を持った者は、おそらくだれもいなかった」  ビデオは、秘書から受取ったマスクを大三がかぶる、その数秒後、苦しんで倒《たお》れるシーンになっている。 「これだけたくさんの人がいながら、だれもマスクに毒を塗った人を目撃《もくげき》していない。これはまさにマジックだわ」  有季が言った。 「だれがこんなことを考えたんだ?」  貢は有季の顔を見た。 「マスクを利用して殺人を計画するとすれば、五人組しか考えられないわね」 「おやじに聞いてみたんだ、お父さんたちがやったんじゃないかって」  田中が言った。 「なんて言った?」 「五人組の中で、もっとも過激なのは金本だそうだ。彼《かれ》は二人を抹殺《まつさつ》すると言い張っていた」 「じゃあ金本か? しかし、どうやって近づいたんだ? あの現場に金本なんていたか?」  貢が聞いた。 「マスクをかぶった七人の取締役の中に混っていればできるんじゃない?」  有季が言った。 「そうか、それならできる。あのとき、社長と五人の取締役は、どうしてもマスクをはずさなかった」  矢場が言った。すると有季が、 「もう一つ。会長は自殺したということも考えられない?」 「自殺か……? それは考えられないことはないな。大三は自分が苦労して作りあげた会社が、他人の手に渡《わた》るのを我慢《がまん》できなかったと考えれば」  矢場が言った。 「他人の手ってだれ?」 「『エイトツー』だ。銀行からは融資《ゆうし》のストップというより引き揚《あ》げがはじまっている。そうなったら倒産《とうさん》を避《さ》けるには、『エイトツー』に吸収されるしか方法はないのだ」 「じゃ、もうぎりぎりだったんですね?」  有季が言った。 「五人組は、小倉常務を担《かつ》いで会社を再建しようとしていたが、事態はもっと深刻だった。言ってみれば、末期ガンの患者《かんじや》さ。打つ手はないんだ」 「じゃあ、おやじたちのやったことは無駄《むだ》な努力だったんですか?」  田中が言った。 「気の毒だけれど、そうだった」 「そうなると、会長を殺す意味はないじゃないですか?」  有季が言った。 「そういうことになるな」 「ということは自殺か……?」  貢がつぶやいた。 「そうじゃない。他殺よ」 「どうしてそう思う?」  貢が有季に聞いた。 「大三は、どんなに追いつめられても、自殺するようなヤワではない。だって、記者会見で起死回生の策《さく》があるって言ったんでしょう?」 「たしかにそう言った」  矢場が言った。 「それって、何をやるつもりだったのかしら?」 「それはバーゲンセールだ」  田中が言った。 「バーゲンセールなんて、どこでも、いつでもやってるじゃない?」 「どこもやってないバーゲンセールだ」 「へえ、そんなものがあるの?」 「あるんだな、それが……」  田中はにやりとした。 「田中君、知ってるの?」 「知ってるさ。おれがおやじに知恵《ちえ》つけたんだ」 「お父さんが会長に話したの?」 「会長におやじは会えない。常務に話したんだ。常務が会長に話した。どうせつぶれるなら、最後にぱっと花火を打ち上げようって」 「常務と会長は仲が悪いんじゃなかったの?」  有季は、ずっとそう思っていた。 「常務が会社をどうこうするほど事態はあまくなかったんだ」 「そんなにひどいの?」 「会長のワンマン会社だからこんなことになることをだれも知らなかったんだ。おやじはそれを最近知った」 「もう死に体ってわけね」 「そうなんだ。そこで最後のバーゲンはマスクセールにしろって言ったんだ」 「何よ? それ」 「全商品にマスクしちゃうんだ」 「え? それじゃ何がなんだかわからないじゃないの?」 「品物は見える。問題は値段だ。五割引きから七割引きまで。マスクを取ると値段が現われるようになっている」 「最低でも五割? 安いじゃない?」 「採算度外視さ。それだけじゃない」 「まだあるの?」 「マスクをかぶって来店した人には、さらに景品をあげる」 「面白いね。私もマスクかぶって行ってみようかな」  有季が言った。 「きっとお客は殺到《さつとう》すると思う。そのときは会長も陣頭指揮《じんとうしき》で商品を売りまくると言っていたそうだ」 「それを聞くと、自殺説は怪《あや》しくなるな」  矢場が言った。 「しかし、このバーゲンは、店の自殺みたいなもんです」  田中が言った。 「そうね。それが田中君の復讐《ふくしゆう》なの?」 「そういうこと」 「かっこいいこと考えたわね」 「やってくれればいいんだけど」  田中は、あまり自信なさそうに見えた。 「ところで社長の大器だけれど、会長が死んでから見違《みちが》えるほど元気になった。どうしてだ?」  矢場が言った。 「それはきっと、ストレスがなくなったからよ」 「ストレスってなんだ?」  貢が聞いた。 「あの社長が仮面クラブに行ったのは、ストレスで押《お》しつぶされそうになったからでしょう? それがマスクをかぶったとたん明るくなっちゃった。その点は中学生たちと一緒《いつしよ》。やっと解放されたのよ」 「これからどうするつもりなんだろう?」  貢が言った。 「持ち株を全部『エイトツー』に売って、あのビルで、仮面クラブをつづけるそうだ。みんなの心を癒《いや》す、ああいうクラブは、これからも必要だろうって。彼《かれ》には向いているかもしれない」  矢場が言った。 「それ、いいと思う」  有季が言うと田中が、 「また霊能師《れいのうし》をやるのか?」  と言った。 「もうやらないわよ」  有季は、あのときのことを思い出すと、知らずに笑えてきた。     8 『マスクセール』と銘《めい》うった追悼《ついとう》セールのチラシが、ばら撒《ま》かれた。  五割引き、七割引き、さらにマスクをかぶって来店したら景品付き。  その日『マルカ』には、開店前から長い買物客の列ができた。  こんなことは開店のとき以来である。  大器は、マスクをかぶって入口に立った。  マスクをかぶって来た客に、帰りに景品を渡《わた》す役である。  今まで実務からは遠ざかっていたが、これだけは自分の手でやりたいと思った。  考えてみると、大器は幼いときから内気で一人で家にいるのが好きだった。  幼稚園《ようちえん》でも小学校でも友だちはできず、中学に入ると、みんなからいじめられた。  人と話すこともない子どもだった。  父親の大三は、そんな大器を心配して、いろいろと手を打ったが、大学を出てもその傾向《けいこう》はますます強くなるばかりだった。  二代目社長にはしたものの、実務はすべて小倉常務がやっていた。  大三の心配は、大器の時代になって、『マルカ』がつづくかどうかということであった。  丸裸《まるはだか》からたたき上げ、ここまでにした大三から見ると、大器は歯がゆさを通り越《こ》して、苛立《いらだ》たしい存在であった。  そう思って、なんとか頑張《がんば》ろうとしているうちに、バブルがはじけて、あっという間に業績は急降下した。  これまでワンマン経営をしてきただけに、相談する者はだれもいない。  そしてとうとう破局を迎《むか》えてしまった。店の名前がなくなる前に死んだことは、大三にとって、せめてもの救いであったかもしれない。  そんなことを考えていると九時になった。  開店と同時に客が洪水《こうずい》のように店内になだれこんで来た。  この様子を、大三にひと目見せたかったと思った。  大器にとっては、今日でこの店とも縁《えん》が切れる。  もうふたたび客の前に姿を現わすこともない。  大器と同じように、マスクをかぶった客も数多くいる。  店内をマスクをかぶった人たちが歩きまわる姿は異様であった。  そのため、テレビも何社か取材に来ている。 「感想を聞かせてくれませんか?」  見覚えのあるテレビレポーターの矢場がやって来て言った。 「いつも、こんなに盛況《せいきよう》だったら、つぶれることはなかったと思います。といっても、こんな安売りしたらつぶれるかも」 「そうですな。ところで、これからは何をするんですか?」 「ぼくですか? ぼくは例の仮面クラブをやります」 「ああ、あれですか?」 「ぼくには、ぴったりと思いませんか?」 「そう、あなたにはぴったりの仕事かもしれません。きっと繁昌《はんじよう》すると思いますよ」  矢場のお世辞とも思われない。 「まあ、ほどほどに儲《もう》かればいいと思っています」 「マスクを取らないのはそのためですか?」 「それもあります。しかし、ぼくにとってはこのかっこうでいることが、いちばん精神を安定させるのです」 「本格的に仕事をはじめるようになったら取材させてください」 「どうぞ。ただしマスクはかぶったままです。そうすれば、ぼくがだれだかわかりませんから、自由に取材していただいてけっこうです」 「田中さんも、そこで働くそうですね?」 「ええ、彼《かれ》の息子《むすこ》が発案者ですからぜひパートナーとしてやってもらいたいのです」 「五人組は、田中さんが社長のところ、あとの四人のうち三人は、『エイトツー』ですか?」 「そうです。金本はしかたありません」 「そのことを説明していただけませんか?」 「オフレコなら話してもいいです」 「それは約束します」  大器の話はこういうものであった。  金本は妻と別れて一人ぼっちになったとき、深夜目が覚めて考えることは、大三に復讐《ふくしゆう》することだった。  大三のために、金本は汚《よご》れ役を何度も引き受けた。  池島は、金本より前に汚れ役をやっており、それがばれそうになり会社を退職した。  退職の理由は使い込みということであったが、これは大三にはめられたようなものであった。  池島も、大三には恨《うら》みを抱《いだ》いていた。  だれかに汚れ役をやらせ、役に立たなくなったら捨ててしまうというのが、大三のやり方であった。  池島は大三を強請《ゆす》って金を要求していた。  それが度重なるにつれ、困った大三は、出入りの暴力団に頼《たの》んで池島を殺し、隅田川《すみだがわ》に捨てたというのが真相である。  これは、大器が大三から聞いた話である。  金本は、大三に復讐する目的で近づいた。  それは、大三をただ殺すということではなく、もっと苦しませながら破滅《はめつ》させるというものであった。  そのために、会社の内部での造反を探るためのスパイの役を引き受けた。  しかし、それは大三のために情報を取るのではなく、大三を混乱させるために、ニセ情報を吹《ふ》き込んだ。  そのために、大三は疑心暗鬼《ぎしんあんき》になり、正しい判断ができなくなった。  そのことが、会社の没落《ぼつらく》を早めた。大三は会社とは一心同体である。会社の崩壊《ほうかい》は大三の崩壊を意味する。  五人組のうち四人は、新たな再生を夢見《ゆめみ》ていたが、金本だけは大三の破滅が目的であった。  大三にマスクをかぶることをすすめたのは大器であったが、それだけでは大三はマスクをかぶりはしなかった。  なぜなら、大三は大器の言うことを頭から信じていなかったからだ。  大三がマスクをかぶる気になったのは、金本の進言があったからだ。それほど大三は金本のことを信用するようになっていた。  大三が自分の持ち株を『エイトツー』に売却《ばいきやく》したのも金本の進言である。  大器では、この会社を持ちこたえることはできない。どっちみちつぶれるなら、今のうちに株を譲渡《じようと》し、その金で別の事業をやるべきだ。  金本の主張を、大三は素直に聞いた。  もともとスーパーマーケットの経営に関心のなかった大器は、自分の持ち株も『エイトツー』に売却した。  記者会見のとき、マスクをかぶった七人の取締役《とりしまりやく》は、『エイトツー』の取締役だったのだ。  そのことは、大三も知っていたが、記者たちの前であえて惚《とぼ》けてみせ、あとで発表するつもりだったのだ。  会長のマスクに毒物入りの液体を塗《ぬ》りつけたのは金本である。  重役の一人と入れ替った金本に、だれも気づかなかったのだ。 「金本はその後どうしたんですか?」  矢場が聞いた。 「自殺しました。私にすべてを話して。まだ死体は見つかってはいませんが、どこか山の中で死んだのでしょう。おやじの犠牲《ぎせい》になりました。気の毒な男でした」  大器は、首を垂れた。  客は、まだ続々と押《お》しかけて来る。  有季がやって来た。大器に向かって、 「こんにちは」  と言った。 「君は、私がだれだか知ってるのかい?」 「知ってます。社長さんでしょう?」 「そのとおり。マスクをつけているのに、どうしてわかるんだ?」  大器が聞いた。 「それは、霊能者《れいのうしや》だからです」 「霊能者?」  大器は、有季の顔をのぞきこんだ。 「社長は、仮面クラブで霊能者にお会いになりませんでした?」 「会った。あの霊能者は君か?」 「実はそうなんです。いろいろ社長さんを惑《まど》わしたりしてごめんなさい」  有季は頭を下げた。 「とんでもない。君の予言はずばりと当った。ぼくは君を信じている。これからも、ぼくのアドバイザーになってくれたまえ」 「私は霊能者でもなんでもありません。ただいたずらしただけ」  有季は、ぺろりと舌を出した。 「それじゃ聞くが、会長が死ぬことがどうしてわかった?」 「あれは偶然《ぐうぜん》です。でたらめ言ったら当ったんです」 「違《ちが》う。あれは偶然ではない。自分では知らなくても、君は未来を予知する能力があるのだ」 「困ったな。私は本当に霊能者じゃないんです。でたらめなんです」  有季は困惑しきっている。 「でたらめが当るなんてすばらしい。これからもぼくにでたらめを言ってほしい」 「どうなっちゃってんの?」  有季は、矢場の顔を見た。 「これからぼくがやろうとする仕事、成功するかな?」 「それってスーパーですか?」 「スーパーじゃない」 「それなら成功します。何ですか?」 「仮面クラブだよ」  大器は、有季の反応を見た。 「え? それじょうだんでしょう?」 「じょうだんじゃない。本気だ」 「それ、いいかもしれない」 「そうか、君が言ってくれるなら大丈夫《だいじようぶ》だ」  大器は、その場で跳《と》び上りたくなった。  店内は、ますます熱気に包まれている。     9  その夜、『フィレンツェ』に有季、貢、田中、矢場、野口と田中の父親が集まった。 「事件が終って、よくよく考えてみると、マスクってのは、功罪《こうざい》いろいろあるものだな」  矢場が言うと田中の父親が、 「靖から、どうせ死ぬつもりなら、やれることがあるだろうと言われたのがきっかけでしたが、まったくそのとおりでした」  と言った。 「無理心中させられなくてよかったぜ」  田中が言うと、みんな大笑いになった。 「しかし、マスクとはよく考えたものだ」  矢場が言った。 「あれは、学校に行くきっかけのために、苦しまぎれに考えたことなんだ。だけど、マスクをかぶると、本当に人間が変るってわかったときは驚《おどろ》いたよ」  田中が言った。 「マスクかぶると、いろんなことができるもんな。だから流行《はや》ったんだと思うぜ」  貢が言った。 「クラスのみんながマスクかぶっているのを見たときは、パニックになったわ」  野口が言った。 「だれがだれだかわかんないんだもん。みんなやりたい放題。楽しかったと思うぜ」 「まさか田中君が考えたとは、夢《ゆめ》にも思わなかったわ」 「田中君が小関だったとは……。最初はまんまと騙《だま》されちゃった。悔《くや》しい」  有季は、唇《くちびる》をかんだ。 「あれは、われながらうまくいった。彼女《かのじよ》はぼくの顔を知らないから成功したんだ。マスクのおかげさ。だから、貢君には会わないようにした」  田中が言った。 「そこでアッシーは、自分に隠《かく》れて有季と会っている小関ってやつは怪《あや》しいと思ったんだ。そうだろう?」  矢場が言った。 「そう。怪しいやつとは思ってたけど、田中とは思わなかったな」 「ネクラの田中ってのは、小関の分身なんだ。どちらも同じ人間さ。どちらが表に現われるかによって、暗いとか明るいとか言われるのはおかしいと思う」 「それはそう。田中君の言うとおりよ。簡単に人をネクラとかネアカとか言っちゃいけないわね。でも、マスクに頼《たよ》らないで、素顔で生きてほしい」  野口はやっぱり教師だ。 「人間って複雑なんだ」  貢がとってつけたように言うのが妙《みよう》におかしい。 「君らのおかげで、いい仕事ができた。ありがとう」  矢場がお礼を言った。 「毎度のことで。今度はうち以外の料理が食いたいな」  貢が言うと矢場が、 「どこの料理がいい?」  と言った。 「そうだな、すしを腹|一杯《いつぱい》食べたい」 「よし、そのかわり回転ずしだぞ」 「矢場さんって、いつもこうだ」  貢がぼやいた。 「あのバーゲンセール、ずいぶん損したんでしょうね?」  有季が言うと田中の父親が、 「ああいうときは、ただ同然のものも売ってしまうんだ。七割引きでも儲《もう》かるようなものを。だから思ったほどの赤字にはならない」  と言った。 「なんだか騙《だま》されたみたい」 「株はどうなってますか?」  矢場が聞いた。 「一時は下りましたが、『エイトツー』に吸収されるとわかって、また値を戻《もど》しました。この上げ下げで儲けた連中もいます」  田中の父親が言った。 「人間ってやつは、儲けるやつもいれば、損するやつもいる。幸せなやつもいれば不幸なやつもいる。いろいろさ。落ち目のときはマスクをかぶろう」 「貢、おまえ知ったようなこと言うんじゃない」  矢場が言うと、みんな大笑いになった。  あとがき  透明人間になってみたい。  だれだって、一度や二度はそんなことを考えたことがあると思う。  マスクをかぶるということは、相手からは自分がだれだかわからない。これは、一種の透明人間ではないだろうか?  最近、人間関係で自分の素顔を見せることを極端に嫌《きら》う傾向がある。  人間同士素顔でつき合うことは、相手を傷つけたり、自分が傷つけられたりする。これは当然のことだが、それを避けようとする。  それなら、だれともつき合わないのかというと、やはりつき合いたい。人間は一人ではさびしくて、生きられない。  そういう人たちに、Eメールはとても都合のいい媒体《ばいたい》である。  ここでは、自分がどういう人間であるか、自由自在に変身できる。  年齢《ねんれい》も職業も性別も、自分の好きな人間になれるのだ。これは、王子さまや女王さまになれた、幼児のころの童話の世界である。  これをつづけていたら、そのうち自分がだれなのかわからなくなるのではないかと思えるのだが……。  仮面をつけるというのは昔からあった。仮面|舞踏会《ぶとうかい》なども、自分を隠《かく》して別の人間になる楽しみである。  気が弱く、いつも教室の片隅《かたすみ》でしょんぼりしている生徒はどこにもいる。  ある日、そういう生徒田中が、マスクをかぶって学校へやって来たとたん、活発で明るい生徒に変身してしまった。  これがこの物語の発端《ほつたん》である。  マスクをかぶる生徒が学校の中を歩きまわるのは異常なことである。異物は排除《はいじよ》しなければならない。  そこで教師たちはマスクを脱《ぬ》がせようとするが言うことをきかない。  そんな最中、別の中学校で、教師が無理矢理マスクを取ろうとすると、生徒は逃《に》げまわり、追いつめられると、窓から飛び降りて死ぬという事件が起こった。  こうなると、教師たちは、また生徒が死ぬのではないかということを怖《おそ》れて、マスクを取らせることができない。  生徒はそれをいいことにし、マスクをかぶる者がインフルエンザみたいに、あっという間にひろがる。  その様子がテレビでも放送されると、それは全国にひろがった。  いったい、だれがマスクをかぶることを教えたのだろう?  やがて仮面クラブの全容が明らかになってくる。  そこは、いろいろな人たちがマスクをかぶって集まり、言いたいことを言い合って、心のわだかまりを解放する集まりである。  その後、事件は意外な方向へと展開していく。  マスクをかぶるというのはマスクの裏に謎《なぞ》があるから楽しい。  覆面《ふくめん》レスラーも、その正体がわからないのがいい、鉄仮面、鞍馬天狗《くらまてんぐ》など、マスクが出てくる物語はいくつもあるが、どれもマスクマンは一人である。  本書では、マスクをかぶった人間が何人も登場する。そうすると、だれがだれだかわからなくなり、入れ替《かわ》りも自由ということになる。  みんなで、マスクをかぶっていたずらしたら、こんなことができそうだ。それは、きっと成功するかもしれないと考える読者もいるに違《ちが》いない。  中学校で、生徒がみんなマスクしてたらどうなんだろう? 先生がしてたら……?  そんなことを想像していると楽しくなる。  その後物語はどうなるかというと、新型のインフルエンザのように、全国的に猛威《もうい》をふるったマスク病も、インフルエンザがそうであるように、あっけなく終ってしまった。  もう学校にマスクをかぶって来る生徒はいなくなった。  ただ、マスクをかぶりたい人は、子ども大人《おとな》を問わず、まだいることはたしかだ。  仮面クラブを探してみたい人のために——  東京の下町の、狭《せま》い路地の奥《おく》に、そのビルはある。  塀《へい》に囲まれているので、表通りからは入ることはできない。真っ暗な路地を通り抜けると、小さな空間があり、そこにビルの裏口がある。  そのビルには看板もないので、見つけるのは難しいが、部屋《へや》に入ってマスクをかぶれば、そこは別世界である。  そこでは、だれにもプライバシーを冒《おか》されず、冒すこともなく、自由な時間が持てる。ひとときの心の解放と癒《いや》しを求めたい人は、仮面クラブを探してみるといい。  宗田 理 角川文庫『2年A組探偵局 仮面学園殺人事件』昭和11年8月25日初版刊行